第1238回 名張市赤目町一ノ井老人福祉センター講演

【19日午後】1時半から講演、落語。65分で5分押し40名。「いい思い出になりました」と老婆の仰る。僕にとっても強烈な思い出となる。らいむ師との稽古という名の鑑賞会のため池田市に向かう。(中略)らいむ師とお稽古。所感数ヶ所を話し合う。タイムリーなんひとつ提案。二人で笑う。(中略)。
【19日夜】らいむ師と難波。二人で焼酎芋ボトル半本(中略)。話したのは、舞台、落語、人生、経済、生活、人、愛、神。この人もなんか見よと思てやってはるわ。先達として前歩いてくれてはってほんまよかった(後略)。
(『表現舎乱坊短信集成』11月19日の条から引用)
 
 「今日から」、「河豚」。
 僕などは、お客様の年齢構成で考えると、75歳オーバーが70%を占め、65歳オーバーだと85%超のオーダーに達する。かなり高齢者向きに回っている。
 よって、話に行って喜んで頂いたとき、帰りの送賓でお一人お一人と握手しながら僕に投げ掛けて頂く言葉は、「元気頂きました」とか「力を貰いました」系の、所謂「高齢者がパワーを吸い取り感謝型」な物言いをされることが多い。
 ま、本当にその通りなら、こんなことを続けていると、僕は出汁ガラや抜け殻みたいになっちゃって、ご高齢なお客様よりこっちの方が2〜3年早いなんてことになりかねない。怖くて握手してお送り出来なくなる。フォースを吸い取られるんだから、5会場も連続すれば、簡単に暗黒面に転がり堕ちてしまう。
 
 僕は、異なる捉え方をしている。力を頂いているのは僕だ。聖なるフォースをツユダクダクに浴びせかけて貰ってんのは僕なのであって、感謝すべきは僕の方である。吸い取って高齢者を出汁ガラにして帰ってる(これ表現上問題ないよな)。
 
 かねてから言ってきた「主客一体」はここ数年で大きく様変わりした。
 かつて「主体」は僕であって、「客体」は字義通りお客様で、主客を一体化させる当事者は「僕」だと盲信していた。
 しかし長らくお客様方や齢上下の先達らに導かれ、このバカにも朧気ながら見えてきたものがある。
 お客様が気づくと気づかざるとに関わらず、お客様は、自ら一体となられることを内在的に切望しておられ、時空を共有される欲求をお持ちだということを。さすれば本来「主体」の意味するものはお客様であり、そこに介在した僕はその一体化と共有のトリガ、小道具、媒介者、立会人に他ならないということになる。
 本来的に一体であるものが一体を取り戻す。これは所謂、茂八君の言い放った「主客が一体であったことを思い出す(於寺島立飲部)」を言い換えたに過ぎないが、寺島で話していた当時、まだ思い出す主体は「僕」だった。
 今や、その思い出す主体すらも「お客様」であることに気づく。僕は、眼前で勝手に一体化していくお客様を「ただ眺めている」に過ぎないのである。
 すると、じゃあ、てめぇは何しに来てんだ、って話になるんだが、実際、単なる傍観者であって、僕こそがその一体化を眺めさせて頂く「客」に過ぎないのだ。それはそれは誠に神聖な瞬間を見せて頂けることがある、それも一番いい席で。
 これは僕の中での大きなパラダイムの転換であり、「主客逆転」あるいは「本末転倒」という言葉は、良い意味で正にこのことを表すためにある。
 故に終演時、会場末席扉口でお見送りする際、お一人お一人に心内でお礼申し上げているのは、「お時間を頂いてありがとう」は勿論のことながら、加えて「素晴らしい一体化を見せて頂いてありがとう」の想いがある。
 この日、お客様のお一人が、「いい『思い出』になりました」と仰ったのは、新たに「思い出」となる事象を得たこともあるだろうが、本来一体であり、最近忘れてしまって潜在的に希求していた一体感を自らが「思い出」した証しなのかもしれぬと捉えると万事合点がいく。