第1216回 池田市木部地区いきいきサロン(木部公民館)

あいろ【文色】(名)すぢ。けぢめ。あやめ。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用
 
 池田五月山山麓が川沿いの平坦部で途切れる辺り、うっそうと続く、正に森の入口と見えるところに「紀部神社」が鎮座している。その隣に会場はある。
 早く着いたのでご挨拶、打ち合わせなどして、しかる後に境内をゆっくり散策する。少しく高台にある本殿はかなりの古さで、長年氏子の皆さんの尊崇を集めてきたお社であることが見て取れる。拝し礼し奉り平素の同行加護の御礼を申し述べる。神はみな同じである。
 才能なき凡夫をして、発心させ道を求め歩めしめながらも、餓死させず、世界の美しさを目まぐるしく見せ給う見えざるの計らいに対する『文色』である(この用法合ってるか?)。
 
 50名で60分の予定。今日から、と、枕小品集「おばあちゃんの暗証番号」、「田舎そばの行方」、「増えワカ」、「歯の臨時議会」。5分押し。お後、食事会。合唱。露出180分ほど。
 僕はこの集会が好きだ。飯が付いてる。去年も来た。そして再び呼んでもらえた。去年の記述も併せて見ていただくとよい(本日誌の2010-09-13付『第1023回 池田市木部地区 いきいきサロン 出演』)。
 
 先年と同じようにN女史がいらっしゃる。再会がうれしい。一度、池田で喋っているときに遠くからお手を振って頂いた。覚えている。
 この方と去年、初めてここでお会いしたとき、実に不思議な感覚にとらわれたのを思い出した。初めてなのに、初めてじゃない感覚といえばよいか。僕はあの時、心底慌てた。
 「この人とどこで会ったんだ。いつ会ったんだ?」
 自問するが答えが出ない。まるで僕を子供のころから知っていらっしゃるような、初見なのに「久しぶりぃ」と言われているかのような懐かしさなのだ。僕も乗ってドンドン喋る。不思議で視野がクラクラした。
 
 今年もだ。舞台前に彼女と互いの無沙汰を詫び、再会を喜び、近況を交わす。僕よりずっとお年は上でいらっしゃるのだが、グワッと入っていけるし、入ってくる。今ならいつも使ってる言葉でこの状態を説明できる。あまりの主主・客客の一体さに驚いているのだ。二年目と言えど初見にほぼ近いのに、百年の既知として時空を超越し共有しているのである。
 
 本番。10分押して70分。乗せられちまった。
 
 終わって皆さんと食事。その後が合唱のコーナー。歌唱指導はN女史だ。

 先ほどに加えて気づく。歌は勿論のこと、個対多のべしゃりがメチャメチャあか抜けてるのだ。個対個のみならず、個対多においても、僕らは(辛うじて)喋って生きているから、耳触りよく達者なしゃべりの話者を見ると「ん、何者だ?」と耳をそばだてる習性がある。
 光っている、輝いている。前にいる個や多と、ひとつになろうとする熱情を持ち、それを伝えようとする表現の手段(声、歌、舞踊)があれば、根こそぎ持って行かれる。
 聞けば、池田で長年、音楽指導に携わっておられるという。さもありなん。技芸達者な方だ。毎月様々な舞台で皆さんと歌を通じて気を発しておられる方だ。
 歌数曲、出席者お誕生日のお祝いも通しで出席し、はねて後、女史の言う、「乱坊ちゃん、お客さんと一緒に歌うというのを取り入れればいいわよ」。歌謡ショーの勧めを受けた。
 来年も行きたい。