第1215回 阪急宝塚線沿線街あるき2011イベント MC出演(阪急梅田ビッグマン前広場)

あい‐れん【愛恋】(名)こひしたふこと。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用

 午前10時から午後16時30分までのノンストップパワープレイ。阪急ビッグマン前広場で滞留するお客様にむけてのかけ流し、コーナー司会。相手方の数およそ数万ながら計測不能である。
 主催は阪急電鉄および阪急宝塚線沿線の関係8市町の観光担当部局である。以前、池田市告知イベントのMCを阪急電鉄池田市のJVで行ったが、その際のMCを僕は実に楽しんだ。その僕の愉快が伝わったのだろう、アップグレードした拡大版にも起用して下さった。感謝する。
 そのイベントのコントロールを担うのは、池田サンシー(株)ご担当吉岡君である。彼との付き合いはもう4年になる。
 僕は今回よくわかった。舞台に魔物がいるなどとは、よく言い古された言葉であるが、舞台に魔物など、いない。舞台には神しかいない。
 実に、見よ。吉岡君だ、かの人こそが魔物であった。彼が組んだタイムスケジュールに従って喋る。それによると僕はほぼ出っぱなしで、タバコもトイレも皆ダッシュなのだ。これでは農耕用の牛馬や、ギリシアの重装歩兵部隊の行軍のほうが、まだ人としての最低限度の文化的生活(憲法25条)を確保されているように思うのだ。
 恐ろしい男だ、休ませよらん。魔物よ、吉岡君よ。もっと僕を追い込みたまえ。僕は、君の馬車馬用タイムスケジュールを嬉々としてこなそうぢゃないか。君と手を携え二人でなら行ける。脳を介せず、口が独自に喋りだすあのトランスを通じて、君と未だ見ぬ僕を探しに出かけようぢゃないか。
 
 さて、魔物と二人だけではモチベーションを維持できぬ。運動の部活動みたいになってしまう。そこで魔物は僕に様々なるトラップを仕掛けて、僕をしてこの長距離走を完走させるべくもくろんでくれていた。
 今回、「ゆるキャラ大集合」と題して、各8市町のゆるきゃらが集まった。ほとんどは着ぐるみのいわゆる「ゆるキャラ」なんだが、その中の宝塚市観光大使として手塚治虫先生にちなんで「ゆるキャラ」ぢゃない「サファイア嬢」を送り込んでこられた。
 サファイア嬢は、本当に美しい、妙齢の某旧帝大在籍中の才女なのである!リアルの人、ホモ・サピエンスが服着て歩いているのだ!被り物などないのである!(facebookの僕の頁には彼女の写真を掲げている)。しかも、彼女は全編にわたり、僕のアシスタントとして噛み役(相方)をしてくれるという。
 おお、ここで節を分かちて礼を言う。魔物よ、吉岡君という名の魔物よ、よくやった。僕は『愛恋』すべき彼女と手に手を取って語り合おう、彼女をしてこの長帳場を喋り抜く原動力としよう。実によくやった、吉岡君、吉岡君、よくやったよ実に!
 ところが、である。こんな美しい女性を前に、僕の頭には、浮かばいでもエエのに一片の疑問がポッカリと浮かぶ。ああ、この疑問が頭の中をグルグル回って、そのことばっかり考えちゃって、宝塚市観光担当部局のモラル・ハザードを超上回るほどに、サファイア嬢と親密になろうとする僕の企てを、この疑問は事あるごとに邪魔するのだ。
 その疑問とは何か。それは「サファイア嬢というリアルの人のキャラクターをなんと呼ぶべきなのか」、この一点である。これは表現舎が言霊を発するにおいて熟慮するべき重要問題なのだ。
 いわゆる「ゆるキャラ」は、「ゆるいキャラクター」という意味であろう。この「ゆるい」とは「緩」であり、義として、ゆったりとした、ゆるやかな、柔らかい、転じて擬人化された、作り物の、といった意味とも取れる。
 これを義的に反転させてみると、激しい、すばやい、固い、転じて真実の、本物の、といった言葉に変換できる。これらを当てはめると、「激キャラ」、「速キャラ」、「固(かた)キャラ」、「生キャラ」、「真(ま)キャラ」、「正キャラ」などという略語になってしまう。
 しかし、かのサファイア嬢の麗しきに「固キャラ」や「生キャラ」などと称するのは、いかがなものであろうか。別の意味が含有されかねない恐れすらある。
 また彼女を「真キャラ」、「正キャラ」などと呼べば、かの僕の同僚・福まるくんなどの「ゆるキャラ」群は、一転「偽キャラ」という風に僕が考えていることの証左ともなり、一挙に池田25万市民を敵に回してしまうことにもなりかねぬ(実際、再々日記で言うように、池田は被り物をとった中の人のほうが世界中の男性諸君を魅了することは僕が請け合う)。
 ことここに及び、僕は国内の広告宣伝・イベント業界の皆さんにお尋ねする。一体、何と呼べばよろしいか?
 まったく、これで夜も眠れない。