第1197回 朝の楽しみ

 下の娘、二回目の夏休みが来た。二年生になって奴はますますコマシャクレテ来やがった。言うことを聞かないなんて序の口で、最近では父の性格を考慮したうえで、妻をもしのぐ術中にはめてくる。
 「あのなぁ、父さん」
 「なんや」
 「夏休み、ラジオ体操が始まるねん」
 「おお、懐かしいやないか。父さん、ラジオ体操大好きやで」
 「うそぉー、父さん、ラジオ体操なんかでけへんやろ」
 「あ、あほ、ばかなことを言うな。父さんのラジオ体操見たら、そら惚れ惚れするでぇ、まっこと見事やでぇ」
 「ほんまぁ?」
 「ほんまや。いやー、いっぺん、お松に見せてやりたいなあ」
 「見たいわ(ハート)!ほな明日から毎日6時15分に起こしてな、お母さんは自分でおきなさいっていうねんけど、まつ、おきられへんし。なあ、一緒にいこ?」
 「応!よっしゃーあああっ!まかしとけーぇ!朝起こして、父さんの華麗なるラジオ体操をば見せたるわい!」

 かくて、毎朝せっせと、目覚ましを6時に合わせて独り飛び起き、うがい手水に身を清め、寝てる娘をたたき起こし、装束を整えさせ、髪を馬尾に縛りあげる。そして寝ている妻と、長女(学校が異なる彼女はまだ授業がある)に「行てくるぞ!」と勇ましく玄関を出るのだ。
 二日酔いであろうが、2時間ほどしか寝ていなかろうが関係ない。娘にラジオ体操の本場・清風仕込みの本物を見せるためだ。手を引いて出発する。同じマンションからも何人か一緒に行く。
 近くの中加賀屋公園につくと、沢山の人達が集まっている。小学生、父兄の皆さん、地域の町会長さんたち風のおじいさんたち。その数およそ100。
 まずは「ラジオ体操の歌」から始まる。僕が小学生の折に叩き込まれた伝統の曲だ。歌詞を以下に掲げる。
 「新しい朝が来た。希望の朝だ。喜びに胸を広げ青空仰げ。ラジオの声に健やかな夢を。この薫る風に響けよ、それ、一、二、三」。
 いい歌だ。しかしこれをただ鼻歌混じりに歌っているだけでは、ラジオ体操の面白さの表面っ面をなぞっているだけである。ラジオ体操の裏表両面を双方楽しまんければいかん。
 僕は、警備会社で教わったように直立の姿勢に五指を体側で揃え、音楽の時間に教わったように曲のリズムに合わせ踵を上げ下げしながら、大きなお口を開けて大音量で美しく歌う。むろん歌詞だけではない。伴奏からパーカッション、ドラムの類まで出来るだけ忠実に再現する。娘に父が「完全独立型・自己完結戦闘ユニット」であることを思い知らすためだ。
 よって僕の口をついてでる音を忠実にテキストに起こすと以下のようになる。
 「パンパカパーン、チャラララ、パンパカパーン、チャラララ、パンパーカ、パンパーカ、パーン、タッタ、
 あぁーたぁらぁしぃーあーさがーきたっ、
 きぃーぼぉーのあーさーだっ、
 よーろぉこーびにむねぇうぉひぃーろげっ、
 あーおぞーらあおげえーっ、チャラチャララララ、
 ラジオォーのぉこえにぃー、パパパパ、
 すぅこやーかなむぅーねをぉー、チャカチャンチャンチャチャチャチャ、
 こぉーの、か、お、るぅ、か、ぜぇーに、ひ、び、けぇよっ、
 そぉれ、いっち、にぃー、さんっ、
 チャンチャチャン、パンパカパーン、チャラララ、パンパカパーン、チャラララ、パンパーカ、パンパーカ、パーン」

 この表記を見ると、なんや無理矢理に文字数を稼ごうとしているように見えなくもないが、まあ、こんな感じで嬉々として歌うのだ。
 娘はちらりと僕に目線をふると、口早にこう言う。
 「父さん、恥ずかしいからヤメテ」
 やめない。やめられない。やめちゃいけない。なぜならラジオ体操第一から第二も、この「完全独立型・自己完結戦闘ユニット」ととしてのクオリティー絶唱し舞い踊るのだ。
 「完全独立型・自己完結戦闘ユニット」の定義は、そもそもボーイスカウト時代に乗ってる飛行機が無人島に不時着しても、何とか生きていけるようにしようと願って皆で活動した名残の言葉だ。
 ラジオ体操でも同じだ。すなわち、ラジカセが突然ぶっこわれ音が出なくなっても、そこにいる100名にあたかも「それがある」ように感じさせることが求められる(まあ、求められたことはないが)。
 もちろん「今日は、北海道の函館市立中央運動公園からの生放送です。ここ函館市立中央運動公園は、函館山の緑に包まれ…云々」などのNHKアナウンサーの説明なども、第一と第二の間に挟み込む高等テクなども求められる。踏みいった道程は深く険しい。
 たとえ娘が休んでも、父は行く決意だ。