第1171回 立ち飲みへの誘い

 テレビは見ない。いや、これは嘘だ。WOWOWだけ見てる。というか、テレビは子供が寝静まってからじゃないとつけない。見たいものがない。新聞も産経以外見ない、それも時折見る程度(読むんじゃない)だ。新聞はどうも遅い。
 ほとんどはネットで済ましてる。いや、しかしまったく便利で快適な世の中になったものだ。ネットがないと話が前向いて進まない。情報収集と伝達、世論把握に真に便である。
 70年代以降の特定勢力によるいびつな言論封殺、思想弾圧、言葉狩りには辟易としていた。殊に何かに統制された情報や言論に小首を傾げていた僕らにとって、様々な人たちが不統制に発する情報や疑問、言論に、僕らのごとき一般民間人までもが直接触れる機会を得たことは、情報の歴史4000年(人類の歴史と言い換えても良い)の中で、格段の生活向上である。
 僕が初めてネットに接続したのは、96年初頭であった。初号機は、部品買いの自作マシンで、PentiumPro200MHz、HD600MB、メモリ256Mで、本体(モニタ抜き)だけで45万くらいかかった。あの頃は金があったんだな。
 OSはWin95で、スカジのCDが認識できなくて、フロッピーからOSをインストールした。たしかフロッピー30枚くらいあった。ただ、ネットワークカードを認識させるためだけに、ドライバファイルを直接書き換えたりして、二晩完徹したのを覚えている。
 それだけにネットに接続した喜びはひとしおであった。接続は23時からのテレホーダイで、しこしことダイヤルアップ。今から考えると猛烈に遅かったが、動画なんかない時代だったから十分だった。
 僕らは、ネットに接続して一気に指饒舌になった。あっという間にブラインドタッチに移行できたのも、当時眼前に広がった電網空間を精一杯楽しもうともがいた残垢である。
 現下、匿名性を問題視する意見があるのは聞き及んでいる。しかし顕名して議論することを躊躇せざるを得ないオーウェルの『1984年』の如き時代があまりにも長く続いたことを忘れてはならない。デメリットよりもメリットを尊重すべきである。著名人の言論は概ね、もはや何らかのバイアスがかかったプロパガンダと見るべきだ。匿名の、幾千もの名もなき発言にこそ傾注する価値はある。
 当初、匿名性は不完全であった。90年代末であったか、知り合いのある男(僕は彼の結婚式でスピーチした)で、ネットに不用意な発言をした者がいた。当時、プロバイダは、人権系の団体などには個人情報を何もかも洗いざらい喋っていた(今もそうなのかも知れん)。書き込みの翌朝には某機関の黒塗のハイヤーが、プロバイダを絞めて彼のIPから探し当てた自宅と職場にやってきたと聞いた。板上での発言の非を詫び、管理者らと和解した後で、だ。その後も彼は長年難渋していた。
 僕は傍観者ながら、対立するとターゲットにされた途端、弱者救済を意図する民間団体は、国家の権限を超越する強大な力を行使でき、対立サイドは(当時)だれも助けてくれない惨状を見た。人権擁護法案の国民的議論の喚起を切望する。『1984』に逆戻りするのはごめんだ。
 しかし、それから後の時代は、おおむね自由な言論は、ネット上(の一部)でのみ、ほぼ担保され現在に至る。自由な言論の場は、僕らをして、個人を陥れたり誹謗するようなものではなく、国家・行政をも含む各種企業団体の様々な理不尽や横暴への批判を、恐れることなく発言できるようになり、マスコミが意図をもって放置する各種事象への監視が可能となった。
 当然のことながら、何を書いてもいい空間が確保されたことは、上記の事件などにより思考停止していた僕らにとって、まことに喜ばしいものであった。その反面、何を書いてもいということは、書いてあることの大半は「嘘」であることを知り、膨大な嘘を交えたテキストの中に、珠玉の「真実」が含まれていることも知るに至る。また日本に真実の報道などは存在せず、似非ブームで稚拙なプロパガンダを受けた僕らは、テレビや新聞を見捨てるのにさほど時間はかからない。既存メディアの押しつけは、われらをして機械翻訳、取捨選択、比較検討を自力で行わせしめるしか方法ない世界へとわれらを誘い、わが母の如き情報弱者を煽動するための陳腐浅薄で邪まなものに見えだした。
 「もっと自身の考えを訴えねばダメだ」とは、昼のバイトでT君と様々議論してきたところである(昼のバイト風情で一体何を論じているのだ?)。
 原発、パチンコと参政権の是非を、議員も含めた社会全体が議論できないのは、それぞれが言論人・発言者の資金源であるからだ。批判的な論を展開した途端、マスコミや言論界からから消される浮目にあうのやも知れぬ。
 ねがわくは、俳優・山本某、彼売名にあらずして、内心の良心により突き動かされての行いであれば、語るに足る。御心による御業である(ただし彼の領土問題についての議論は実にお粗末だ)。
 ちなみに、本稿において、僕は上記の3つの問題に何らの意見も述べていない。現下、一求道者に過ぎぬ表現舎のブログにおいて開陳するような内容ではない。各位、安酒場で共に立って語り合おう。