第1168回 言語の限界

 意思や想念を、言語により表示・伝達することは、人類に付与された素晴らしい能力であるにしても、語彙、言語の文法体系、表現方法などによって、あるいは翻訳も含む、時代、地域、文化、富貴などで著しく理解の制限を受け、ほとんど、いや、ちっとも伝わっていないと考えても良いだろう。
 たとえば、例に次の一文を検討してみよう。
 「今日は、時間がなくて、移動しながら昼飯を食ったよ」と書いてあるとする。
 僕などはそれを読めば、昼勤でのトヨタパッソの中、コンビニで買った、赤飯おにぎりとLチキをダイエット・コークで流し込む絵図らが思い浮かぶ。いつもそうだからだ。
 これが読み人が変わればどうだ。たとえば、タヒチボラボラ島でバカンスを楽しむフランス人の数学者なんかだったら、おんなじ文章でも、マウンテンバイクにまたがり、サンドイッチをつまみながらワインをグビリとやって、タヒチアンな彼女の家に向かう途中、なんて優雅な絵になる。えらい違いだ。
 トモダチ作戦遂行中の物資輸送の米軍ヘリの操縦士なら、海兵隊支給のレーションを噛み砕きながら、「ムーヴ!ムーヴ!俺さまがトモダチ日本の被災者を助けてやるぜ!ヒャーッハー!」とかいうことになる。
 荘園の徴税請負人とかが読めば、牛に引かせた荷車の前をポクポク歩きながら、干れ飯いなどをほうばり口中パッサパッサで、谷あいから流れる清水に喉を潤す姿なんぞを想像するのだろうか。
 
 文を変えてみよう。
 「急激な便意に僕は顔色を青くした」
 僕だったら、フィールドを走りながら見つけたコンビニに駆け込み、お姉さんに、「べ、便所貸してなー」とソプラノ声の半泣きで、個室の占有者がいないこと神に祈る姿が目に浮かぶ。もちろん、サスペンダーは両外し、おっさんのKARAな感じで、汗ばみコンビニ内を駆け抜けるのだ。いつもそうだからだ。コンビニのヘビーユーザーなところがチト悲しいんだが。
 アメリカインディアンのナバホ族が読めばどうか。地の精に口早に感謝しながら、蛮刀の柄で20センチほどの穴をガッシガッシ掘ってる映像を思い浮かべるにちがいない。
 月面での船外活動中の宇宙飛行士なら、地上の管制センターで心拍数の上昇や発汗量の変化をモニターされながら、世界各国の数十億人がワッチするテレビの音声チャンネルに「あ、あああ、あ、うぐっ、か、堪忍して…」という悲鳴とも、オエツともわからぬウメキが中継されるという最悪の事態を想像してしまうことであろう。
 「ちょっと便所行て来るわ」。これにしたって、便所という密室空間で一人一人がどんな用便をしているか、実はお互いにわかってはいない。
 生まれたときから金隠しに尾低骨を当てないと(即ち、便器の前後ろを反対に坐らないと)排泄の調子が出ない人や、和式絶対不可でパイプを握りしめ空気椅子状態で気張っているかも知れん。常識で考えたらわかるだろう、という貴兄にお尋ねする、常識とは一体何なのだ?
 上記のごとく、文章単位で伝わらないことはもちろんのこと、単語単位でも実は伝わっていないことがある。
 「お茶」とは、あの、お茶、だ。お茶以外にないと思っている皆さん。僕の悩みを聞いてくれ。
 本日誌報にも、深く掘り返せば「お茶」という記述は度々出てくる。酔いざめに飲んだ茶のうまさを記している回などがあった。わかりやすくするために、わざと「麦茶」などと書いている回もある。
 しかし、今、本当のことを書いてしまおう。ウチでお茶を炊いてもらったことはない。麦茶や緑茶に憧れる。
 ウチは、ここ何年もずっと「どくだみ茶」なのである。それも妻の実家で栽培、乾燥された純度100パーセントのリアル・どくだみ茶だ。僕はどくだみ茶で茶漬けを食い、酔いざめにもどくだみ茶をあおっているのだ。
 むろん、義理母の愛満点なので、一、切、の、不、平、は、な、い。もう慣れた、慣れたよ。
 みんなの言うお茶と、僕の言うお茶は違うんだよ。強烈なんだよ。どうして涙目なのかは聞かないでくれ。
 どくだみ茶が大好きさ。ただそれを書きたかっただけだ。