第1159回 旭区社協いきいき教室(高殿南老人憩いの家)

 旭区には土地勘がない。同じ大阪市内なのに感じがまったく違う。市内でも、旧村落の跡などは少し趣が異なるが、通常、メインの通りから脇へ逸れる道はほぼ角度90度になっている。多少ゴチャゴチャしていても「あの大通とあの大通の間にいる」とか、わからなくなっても「ここを西に行けば、あの筋に出るはずだ」などと碁盤の目のどこにいるかを認識できていれば、行きたいところには着く。
 旭区の辛いところは、碁盤の目ではないことだ。京街道を軸とした不規則な斜めだ。歩いていてもちっともわからない。おまけにここいらは鉄道駅が割と大雑把な配置なので、歩く距離が長く、迷いに迷ってなかなか着かない。
 夜勤明けの如く曙で東を、北斗を探して北を、南中で南を測れれば良いのだが、あいにくこの日は曇天で、方角を確認できないので現在位置を確認できぬ。加えて、残念なことに閑静過ぎて道を聞く人もいない。
 
 まあ、昔から歩くことは苦ではない。お蔭様で足腰は今のところまだ使用に耐えうる強度だ。ポクポクと荷物を背たらい歩きながらいろいろ感じる。
 自分がかつて思い描いていたライフプランや経済生活の本流から逸脱しきっているという「ええかいな」感だ。「ええかいな」というのは不安で発する「ええかいな」ではない。不安などない。プラスの意味での「ええかいな」だ。
 娘らよ、聞け。一万円札を机一杯に並べることを幸せだと考えていた頃は一万円札と縁遠い生活をしていた。また年収が数倍あったころでも何かが足りなかった。「いくつかの単語」で言い表すことのできる、訪れた自分なりの新しいパラダイムに身を委ね、今ある周辺環境に感謝する。これだけで世界のまことの枠組や仕組みを知る実験に没頭できるのだ。
 娘らよ、どこかへ行けばハラショーな世界があるのでは、あと何かがあればハラショーになれるのでは、と考えるのは共に止(や)めにしよう。ハラショーな世界はすでに君たちの前に広がっているのだ。
 君たちも僕も通り過ぎ往く旅人に過ぎぬ、時間はない。(口先での表現活動をも含む)物理的な肉体の快楽や社会的栄光などよりもっとエキサイティングなこの実験に参加せよ。「いくつかの単語」はすでに直接のメールで送ってある、日誌を探せば出てくる。
 
 旭区のいきいきはよく集まって下さる。30名、今日からー、河豚。楽しい一と時を過ごす。ここのように他でももっと茶話会を楽しもう。茶話会にこそ傍観者としての表現舎の真価がある。
 
 帰りに、地元の方に聞いたら、豪快に遠回りしてしまっていたようである。でも、それはそれでよかったとも思う。