第1155回 緊張したこと

 音源で誰を聞くか。僕は最近、江戸を車では聞いている。昔、集めた音源を順繰りに仕事の移動中かけ流してる。
 中には上方も少しく混じっている。全体量の4分の1程度か。上方はコンテンポラリーでオーソドックスな奴しかない。おおむね演者が好きか、いつかやりたいなあと憧れる噺しか入れてない。
 順不同で、枝雀師、松鶴師、春団治師、文枝師、米朝師、三枝師、雀々師などに加えて、松喬師は外せない。天王寺まいりや佐々木裁きなどは何度聞いてもホッとする。松喬師のにじみ出るお人柄や人間のおかしみに溢れ、CDなのに、運転中なのに、噺に引き込まれてしまうのだ。古典的で安心感ある上方落語の登場人物を通じて、きっとこの人、松喬師はいい人なんだろうなあ、と推し量ることができる。音源レベルで憧れ、酔う。
 以前、握手をしてもらったことはある。本誌報にもその日の感激を記している。あれは一瞬であった。
 もし、松喬師に身近にじっくりと会うことがあったならどうなるだろうか。いや、会うわけがない。重鎮である。おそらく僕は緊張に身を固めて、一言も発せぬままに終わってしまうだろう、と思っていた。
 
 モーリタニア・フレンチの上司が言った。
 「ある方の送迎に行って下さい」
 「へぇ、いずこなりとも!」
 「天王寺です。住所はこの紙に!」
 「わっかりましたぁ!で、どなたですっ?」
 「松喬さんです」
 「し、ししししししょ、松喬おおおおおぉぉぉぅ?」
 
 えらいことになった。ご自宅へ向かいに行って、ある会でおしゃべりしてもらって、終演後、ご自宅へお送りするというミッションだ。
 二こと三こと行程の説明に言葉を交わしたのは覚えている。でも、僕はほとんど緊張に身を固めて、無駄ごとは一言も発せぬままに終わってしまった。本物だ。本物が後部座席に乗っていらっしゃる。
 予想通りいい人だった。思ったよりお小さいが発しているオーラは、笑鬼さんの上品な感じの方だった。焦げかたは笑鬼さんの方が焦げている。着流し姿だ。おしゃべりの間はお持ちの巾着とマフラーをお持ちする光栄に浴する。
 帰り、一言おっしゃった。
 「喋るのんて、難しいね」
 日本の宝の一人である。僕が傷つけるわけにはいかない。安全運転に心掛けた。