第1154回 「風」に思う

 日本では恒例の統一選があったようだ。僕などは、舞台が空きの日は全日、母国から遠く離れたマダガスカルでのパートタイムジョブに現を抜かしているので、故国の政治状態はさっぱりわからない。ネットを通じて少しくを読むことができるくらいだ。
 聞けば。また「風」が吹き荒れたようである。停滞感・閉塞感を打破したいという有権者の想いはわかるような気はする。
 「風」との付き合いは長い。そもそも「風」は大衆が起こすのではない。大衆に「風」は起こせない。テレビが起こす。
 
 テレビは不思議な媒体だ。放送法に定められた法の精神を鑑みると本来報道は天気予報のような事実関係の羅列のみでいいはずだ。しかし不偏不党なシーンを見れることはほとんどない。要らざる解説を入れ、意味のない音楽や重要事項をカットした編集などで論点をずらし大衆を扇動する。そのさまを見ていて、三つの仮説が去来する。
 あのように偏向した扇動を煽るのは、一に、特定の一味や思想に組したプロパガンダ戦略を展開しているのか、あるいは、二に、作り手側の現状理解の能力が欠如してAか、Bか的な薄ぺらな二元論に偏向したものを垂れ流してしまっているのか、三に、見ている大衆の知的能力を作り手側が勝手に低く判断して論点を削り、ヒン曲げて民を導いているような気になっているのか。つまり、誰かの手先か、バカなのか、バカにしているのか、のどれかではないか。
 まあ、一、二、三のいずれにしても、上記のような報道に関わる輩は「ジャーナリスト」などではない。「ジャーナリズム」など日本にはない。戦前にもなかったように、戦後にもない。これを自称する人が、万が一いるとしたら、後の七代にわたり扇動に加担した罪は免れ得ぬ。
 
 そもそも「風」が吹き散らかし出したのは、僕らが覚えている限り(土井たか子の時代とかあまり知らない)、2005年、小泉政権の改革の郵政民営化関連法案の是非を問うた衆議院解散総選挙であった。マスコミを利用し、浮動票に対し短いフレーズで訴えかけた彼の戦略は、衆愚政治の根本とも言うべき、あまたある論点をただ一点に集約し、大衆にその選択により来たるべき結果を不明確にするデマゴークの最たるものであった。僕らはこれによって社会に起こった変化を忘れてはならぬはずだ。
 確かに耳触りは良かった。が、マスコミはその改革によりもたらされん正逆両の効果を識者を交えて検証できたか、双方の論点に立って小泉劇場を平等に俯瞰することができたか。
 当時、自己責任、自由化、郵政民営化などの文字がブラウン管(古いなあ)に踊ったが、ネット未接続の一般大衆(ウチの母ちゃんみたいな人ら)には、その本質的な意味すら理解できなかったろう。
 それぞれの立場で様々に疑問を呈する意見はあった。僕のような一介の素人・政治音痴にでさえ、当時、本ブログに「郵政を民営化するということは、中央銀行に匹敵する財政力を持つものを、外資うごめく野に放つ愚行である」との所感を記させている。ま、結局、年次改革要望書の通りになった。
 
 2009年8月末の総選挙(ああ、何もかもが懐かしい…)で皆さんも気づいたように、マスコミの主導する異常な偏向には、僕も本当に辟易とした。当時、日に日に狂態を増していく報道を見ながら、本誌報に所感を書いた。選挙前に感じた違和感を一部引用してみる。選挙のおよそ半年前、党の代表の金の問題が顕わになったころの記述だ。
 
 「新聞やテレビがあれほどまでに常軌を逸して政権交代を目論み(なんぞやらないかん事情があったんだろう)煽り倒していたにも関わらず、その総理候補者とプロパガンダしまくった男の金の問題が露呈した途端、全てのキャスタやコメンテータどもが目論みが外れて涙目で戸惑いながらその報道をせざるを得ぬ苦境に立たされてやがるようだ。痛快だ。
 些細な漢字の読み間違いで揚げ足を取り、似非ブームなどを捏造して世論を在らぬ方へ誘導せんと大衆を愚弄し続けたあれら狂態は、今後、大いに方向転換を余儀なくされるだろう。全く不愉快極まりない時代が続いたものだ。
 いつかしっぺ返しが来ることなど彼ら煽動者らも解っていただろうに。世論を操作できると大衆を甘く見たゆえの愚行である。心ある民草は愚かな煽動者の横暴に臍を噛み、大多数の読者視聴者らは度重なる偏向に嫌気がさして既に離れてしまった後だ。今更手遅れだろう。失態は必ずや決算で明らかになろうて。(2009-03-12 第720回 落ちていた新聞紙からの情報)」
 
 しかし煽動はおさまらなかった。選挙の半月ほど前に、マスコミのプロパガンダにほとほと嫌気がさしていた僕は、以下のように記している。
 
 「テレビはチャンネル設定をWOWOW以外みな消した。もはや見ては居られぬ。小泉の時の煽動も酷かったが、近時のマスコミ大煽動は彼等の断末魔であり、大衆が実は衆愚ではないことを見謝った大失態として彼等自らの崩壊への序章と将来に記録される。この煽動により樹立を画策された新政権は、甘言を掲げ近付くが直ぐ様馬脚を現し、今は隠されておる国民大不利益を強いてくるであろう。
 これへの反発が邪まな為政者や国内不良分子を海内より駆逐する、組織されぬ国民的運動に発展する契機となる。これは十年以前に堂山町で現某府議に予言した『左に振り切っていた振り子が一旦右に振り抜いて後に穏やかな中道に戻る』ための、右振り抜き過程での左の最期の抵抗である。正常化の為の必要な過程とみる。
 無論、保守勢力のこれまでの怠惰は猛省されねばならぬ。また保守の顔をした亡国の手先も山といた。情けないことこの上ない。
 『いっぺんやらしてみたらええねん』
 こう考えられるのも仕方がない。しかし勝負はその後にくるのだ(2009-08-14 第804回 あい【愛】)」
 
 今回の統一地方選は、大阪以外のほぼ全府県で保守政党が現与党を駆逐した。僕は一昨年夏におこったナチス並みのプロパガンダの溜飲を下げることができた。
 この結果は、東日本大震災への現与党の対応がまずいからではない。政権交代に準備不行届きな素人集団に国の舵取りを求めてはならないという、「いっぺんやらしてみた」結果の後悔の表れと見る。まあ、いずれにしても、「政権交代」のみが旗印で、詐欺まがいのマヌへストに踊らされただけだった。だいたい、市民活動家や学生運動で己の国家にホゲタ抜かしていた者の残党に国家レベルのリーダーシップが放てるわけがない。書いた当時はこんなことにまでなるとは知らなかったが、引用文に言う「勝負はその後にくる」とは、現下、我ら日本国民が立ち向かう、かかる国難である。かかる国難に素人集団に行く末を委ねなければならぬことこそ国家1000年の厄災である。
 
 上記のように、大阪を除いては保守政党の大勝利であった。大阪では地域政党が大躍進した。これもその出自、出身を見れは新参は別にして、そのすべてが保守政党である。これはこれでまあよい。「既存政党に飽きている」などとも聞くが、国家レベルで言えば看板の掛け代えである。知り合いもたくさんいる。旧友もいる。いずれにしても当選は嬉しいものではある。
 しかしワン何とかというお題目はみんなちゃんと理解できたのか?テレビで知事が映らぬ日はなかった。知事の街頭演説会 ―僕はなぜか2会場とも間近で見ていた― で、おばちゃんたちが一生懸命写メ取っているのを見た。
 実は、コソっというが、間近で何度も一生懸命聞いたんだが、僕にはあまり理解できなかった。僕の頭が悪いのであろう。公選の中央区長が平野区長に莫大な金を渡す絵図らが思い浮かばない。地方自治法の規定により大量に増えるであろう区議たちが、今の市議よりババ安に安い(割り算したらそうならないか)歳費では活動がしにくくなる。では、いよいよ区議は資金力のある者の名誉職となってしまうのではないか。説明が希薄な中でデジャブのようなものを少しく感じるのは僕だけか。
 
 「風」は、テレビが起こす。この「風」の原因は、政治にかかわり、想いを発する側(政治家)と、想いを受け取る側(有権者)の双方が政治的にスキルダウンしているから起こるのではないか。本人の想いをすべて吐露し、吐き出させているのか、何だかよくわからないよ。 
 ま、いずれにしても「風」などは表現舎には関係ない世界である。表現舎は、まったくの無風の中を、小さな箱で僕を見るために人生を交差させてくれたお客様と、はたまたマダガスカルの訪問先の玄関や街角で、ジョゼッペ親方の代理としてお出会いする皆さん方と、時空の共有、主客の一体を旨として歩む。