第1034回 港区社協いきいき教室(南市岡連合会館)

 
 興奮が覚めやらぬうちに書いておかねばなるまい。
 30名。時間一杯喋る。「今日から―」「河豚鍋」。元気なお客様方だ。ともにお時間を楽しむ。
 茶話会に同席する。実は最近、茶話会こそが意味あるものではないのかと思い始めている。初めから終わりまで茶話会でもいいのではないか。茶でも飲みながらみんなでビシッと大喜利でもして、ゲラゲラ笑って明日への活力を培うというのもありなような気がする。
 彼女たちは僕を孫、子の如くに迎え入れてくれる。実はこれ、僕をいきいきさせるための「いきいき教室」、自分の歪小な殻から脱出させるための乱坊「閉じこもり予防事業」ではないのかと見紛うことがある。少なくとも大阪の高齢女性らによる僕の激励会の様相を呈するときがある。まさにそんな勢いで迎え入れて下さるのだ。僕は激しく恐縮し感謝している。
 ネットワークのお母さん(ウチの母ちゃんとおない年)が、着物を畳むとき、「手のアイロン、手のアイロン」と僕の着物を伸ばしてくれる。僕は彼女に見えないように後ろから手を合わす。
 僕などが行って、糞の役にも立たないことなどよく解っている。だが、共に時空を共有し、主客が一体となることの意味を、この方々は僕をして気づかそうとしてくれているのだ。彼女たちが主役で、僕は脇役・立会人に過ぎぬ。
 己は何をしにこの世に来たか、なりたいものとなっているのか。
 最近思う。実は昔、あれほど血道を上げた経済や金の問題など、表現舎となって、さしたる問題ではないことに気がついた。眼前に広がるこれら光景をみて、今の自分を、自分のあるべき道において、「成功している」と認識できるかどうかが鍵である。たくさんの方にご支援を受けていること、これが僕には巨万の富に見えている。
 問題は、己がご支援を受けるに足る人間であるのかどうかだけが問われているのであって、もしそうだとするならば、ご加護、御心を以って糧は与えられるのだろう。芥子粒ほどの信念があればよい。すべてを委ねてから、金のことで人に要求や不服を発したことはない。嬉しいことに未だ(現時点では)家族みなが餓死しないで、口に薄く糊できている。
 落語は下手である。日々の生活にまみれて研鑽を深めるまでに手が回らない(疲れ果てて寝てしまう)。
 だが、各区社協をして僕に与えられた機会は、来期、新たに阿倍野区、旭区を加え、既存の各区を含めて広範な領域を包括するに至る。財政のひっ迫の中で最大限区社協のあるべきを追い求めんとする各御担当に敬意を表し、愚鈍者ながらこのムーブメントのお手伝いが少しくできれば嬉しい。
 この増区は、たくさんの未だ見ぬ皆様とのお出会いの機会を意味する。あなたがた、いや、未だ見ぬ「あなた」との心震わすお出会いを心待ちにしている。