第1114回 「笑いで元気」落語と講演(於)八尾福寿会館老人憩いの家 出演

 ご縁あって八尾の福寿会・サロン友遊悠の八木女史からご下命を賜った。
 90分であったので以下の番組でご提案、実施した。
 
 番組を掲げておく。
 講演「今日から使える笑いの力」 表現舎乱坊
 落語「太鼓腹」 爪田家らいむ(信金亭八光)師
 落語「河豚鍋」 表現舎乱坊
 
 八木女史と掛け合いでご挨拶。その後登壇。御力のご貸与の御業を受く。
 いつからだろうか。客席のど真ん中へ体ごと飛び込みたい衝動に駆られるようになったのは。リアルの身体は登壇、客席前にいるが、精神は客席の真ん中に五体投地している心持ちだ。常にそうある訳ではない。が、「あ、今日、僕は客席にいて一緒に笑っている」と確信できた日に一体と化した実感を得れるのだ。感じる妙である。
 らいむ師の太鼓腹は、池田おたなで聞いた時と趣を大きく変えていらっしゃった。僕も2年の若手公演に懸けた噺であるから、一通りの研究はしているのでよくわかるのだ。
 太鼓持ちのキャラ建ての前半はしっかり聞かせ、針打ち交渉は軽くされ、中弛みする迎え針の下りは詰めてテンポ良くありながらトリガーはしっかり引いて笑いを取り続け、腹の皮破れても悲惨さを感じさせず、落ちへと誘われるを感じた。
 殊に「腹の皮破れて、かくのごときぃ」を美しく芝居掛けて決める演出は、ホウカン衆のアニサン的存在の茂八の意地と洒落心、サービス精神の発露として、師が大切にしておられる箇所であると後に伺う。その他の箇所の所感を含め、師の言いによれば「『太鼓腹』という同名の噺だがフルモデルチェンジ」であることが大いに見て取れた。
 池田の舞台から今日までの改編に向けたご努力には頭が下がる。良いものを見せて頂いた。
 乱坊「河豚鍋」は終演時2分押し。いつもの枕で2分尺の1本を割愛していればジャスト・スジャータであったのにと唇を噛む。
 おあと茶話会に同席。僕はこの瞬間が好きである。舞台での(こちら側の勝手な)熱狂から少しく温度を下げて、単なる一出席者として客席でお客様方と軽口を言い合い一体となり、同じ時空で出会えた喜びを胸に茶話するのだ。
 八木女史からも、僕の母の出所である因縁のある八尾の様々な賑わいを創るための助力を為せとの心温まるお言葉を数々賜り、表現舎冥利に尽きる。導きに委ね、この方を通じて出会うであろう幾多の皆さんとの人生の交差を楽しみにしたい。
 二人で近鉄八尾駅の安酒場に行く。僕はらいむさんから誘ってくださることが喜びである。この人は大酒家ではない。でも舞台の上がりはいつもお心づかいを下さり二人で乾杯の時を持って下さるのだ。(レベルは格段に違うが)口だけで活きる同業の先駆として、今、僕の悲喜こもごもを太陽系で一番理解してくれている人と言っても過言ではない。僕の誤りを正し、進むべきや向かうべきを常にお示し頂いている。
 じっくり話す。ご自分で落語的人情や落語的人生観の元にないとご自身を定義されていたことが驚きだ。んなこたぁない。かつての人生を捨て、なりたいものへの歩みを、たった独り歩いておられたあなたが居たからこそ、僕はあの年の暮れ、あなたの門を叩き、あとを慕うて今も舞台に上がり続けているのである。
 不特定多数の、それも常に初見で見ず知らずの大衆を前に、時空を必死にグリップしようと爪を幾枚も剥がし、恥をかき続けるこんなアホの僕にとっての直師匠が、落語的人生観に非ずして、一体何を以てそう呼ぶべきなのかと。この師弟の間で僕が受け続けるご厚情を落語的人情と呼ばずして一体何が落語的人情であるかと。
 焼酎幾数合。何度か涙す。話しながら自分が何者かを思い出す最高の時を過ごす。