第1111回 本人の自覚に基づいた帰依の決意

 あるふれあい喫茶に行った。昼の仕事だ。ふれあい喫茶とは「地域で暮らす人たちが、集い・交流することで、地域の人々のつながりを深め、より良いあたたかい地域づくりを目的として、地域の集会所や老人憩いの家などで実施」されているもので、「コーヒー・紅茶・ジュースなどが100円程度で提供されており、いろいろな人が集う井戸端会議的な『場』として、また住民の福祉活動の『拠点』として、ふれあいを楽しみたい方なら、どなたでも参加でき」るとするもので、大阪市内の連合会館、老人憩の家などで展開されている(大阪市社会福祉協議会HPより引用)。
 
 昼の仕事では、表現舎乱坊であることはカミングアウトしていない。これまで表現活動は神聖なもので、俗の最たるものである昼の仕事とは相入れず、一線を画すべきものと考えていたからである。
 
 この日は昼メシを食う時間がなかった。腹ペコで昼の仕事の一業務として会場を指定され赴いた。行って「あ、ここ、出たことあるな」と思い出した。閉じこもり予防事業のいきいき教室で来た会場で、ネットワークで来て頂いていた人もたくさん見た。むろん、表現舎であることは隠していた。
 
 僕は、ゼンザイと甘酒を昼メシがわりに食った。
 
 ある男性と同席になった。その方は、地域の包括支援センターに勤務しておられる方で、感じの良さそうな方だった。地域の皆さんと、より親密なるご関係を持ちたいと、ふれあい喫茶に時折来られているそうだ。
 僕は、突然、インスピレーションを得てその人に、自分が表現舎であって、いきいき教室で回っていること、各区の区社協、包括支援センターの皆さんに実にお世話になっていることなどをお話しした。
 その方も、落語がお好きでいつも聞いておられることや、包括支援センターとしての今後のあり方の一端などを襟を開いてお話しして下さった。
 
 話はいろんな方向へ向かう。実家が共に同郷・奈良であること、とりわけ「ご親戚(奥様のおじさん)」が僕の家の近所である玉出にお住まいであること、などをお話し頂いた。なんともご縁があるものなあと感じ入った。
 僕は「玉出に義理のおじさんがいる」と聞いて嬉しくなり、玉出寺島酒店立ち飲み部の話をし、そして、わがココロのサンクチュアリである「ピエロ」の話をした。
 
 ピエロについては以下に詳しい。
 2009-12-15 第887回 文枝師匠との神秘的な一夜
 2010-12-16 第1080回 桂文枝師との忘年会出席
(PCブログトップの検索テキストボックスに「ピエロ」と入力し「日記」検索ボタンをクリック) 
 
 ピエロの話をしながら泣きそうになる。表現舎でありながら、生きて行くために雑事雑用を為し、もがき、時折自分が何者かわからなくなることがあるからだ。
 
 その人は、ピエロの話を聞き終わって、僕に言った。
 
 「その僕の、義理のおじさんが、ピエロのマスターです」
 
 聞く耳を持つ者は聞くが良い。これは真実である。今の僕に必要な必然である。あたかも偶然を装い僕をあのふれあい喫茶に赴かせ、たまたまのように僕の前にあの方を座らせ、僕の如き愚鈍者の後頭部を何者であるか気づかせるまで殴り続け給う見えざる手 − いや、もう神と呼ぼう − の心憎いご配慮を。
 昼の仕事と、表現舎の端界、区別はないのかもしれぬ。あらゆる場面、あらゆる立場において表現舎たれということか。雑事雑用に紛れ忘れかけている、己が何者か、何をしに来たのかをもう一度見つめ直せということか。
 常に空間は神の気に満ちている。充満し給うと言っても過言ではない。平素の舞台を含め、一体、どれだけの妙や不思議を眼前に並べさせ給うのか。
 
 そろそろ貴方とのけじめをつけなければならない。