第1099回 JA伊賀北部大山田基幹支部「落語を楽しむ会」出演

 早朝、名張にてわが師らいむさんと合流すべく、難波から来舞兄同行。様々話す。きっと、必ず、ここにも私がここに導かれたる意義があると信じ伊賀上野へ向かう。
 大御心、わが内に働くるを感じる。先年、この地にて喝采を受けたるは一年のわが原動力の一部であったことを思い起こす。ここで見たお客様のお喜びのさまを再現致したく、志をもって一年、事を行ってきた。
 着いて、感謝の時を持つ。「祈り」ではない。祈りは神のご臨在を疑う行為である。ご臨在を感じる信念が芥子粒ほどもあれば、お願いではなく「いつも通りのご臨在」を先んじて感謝する時間でなければならぬ。空間は気に満ちている。そこに僕ら(主客)が入る、といえばわかりやすいか。この感覚を得るに3年かかっている僕は蛍光灯だ。僕は頭が悪い。
 番組を記録する。
 
 来舞兄「手紙無筆」
 乱坊「蛇含草」
 らいむ師「太鼓腹」
 仲入り
 乱坊 「妻による乱坊爆破未遂事件」「差し歯の多数決臨時議会
 
 本当はトリは「河豚鍋」であったが、残12分では入らぬ。主催者様、共演者らに断りをいれ変える。楽しかった。実によく受けた。
 この日は、ご近隣ということで、わが義母・きー母さんのご来駕を受けた。僕は金屏風のすき間スリットからきー母さんばかりを見ていた。この人が僕のリトマス試験紙である。難しい顔して見ていなさる。
 最期、彼女が一度、相好を崩して笑っておられる瞬間を舞台上で見た。お客様の受け具合にはある程度満足・感謝していたが、義母の笑い、アア、これで僕は大喜びで大阪に帰れる。
 ジャスト・スジャータの終演。立礼。送り出し。
 老紳士が「いのちの洗濯させてもらいました」と深々と頭を下げてお帰りになる。僕はこの言葉に立礼しつつ泣く。
 あなたによって僕は、僕こそが「いのちの洗濯」をしているのだと知る。僕はそれを知っている。