第1072回 アルパ最終回 所感を申し述べる奉納演舞 (於)堺福音教会

 これは12月8日(水曜日)の条であるが、前回の第1071回を本来7日のところ9日として書いてしまったので、通番表示を乱さぬようここに記すことをお許し願いたい。

 水曜。3シーズン目の最終回。所感を申し述べる機会を得た。50名90秒。お心開いて頂きまくりで、語るべき言葉は与えられまくりだ。
 ここ数年に渡る、練りに練られた構成、流れ、キャストに導きを感じ入る。もの書きになり給えば、きっとすばらしいものを書き給うであろう。
 残り一工程、福留師に若干の質疑事項が数点あり、効率良くご相談できるように要点を整理しているところである。
 
 さて、今日はこの項を利用して、最近消してしまったものを復元したい。以下に要約を記す。
 
 「表現舎」とは何か(要約版)

 そもそもこの屋号は、口だけで生きていこうと決意し、旧屋号「関大亭」では差し支えるので、インスピレーションを得て思いつきで口にしたものに過ぎぬ。単に「表現者」の音から取っただけである。当時は何も考えていなかった。
 現下、この「表現舎」とは、「私がなりたいものへの道の入口」というのが最も適した解となろう。が、これでは答えになっていない。もう少し言葉を尽くしてみよう。
 
 「表現舎」を理解するには、その原型たる「表現者」と、その奥にそびえ立つ「体現者」の位置関係と定義を把握しなければならない。
 奥の院である「体現者」へと至る道に「表現者」という段階がある。その「表現者」へと至る道の出発地が「表現舎」である。建物の名だ。即ち、伏見寺田屋の浜で三十石の船出を待つ間、熱い味噌汁と炊きたて飯を食わすあの船宿、あれだと考えて良い。「表現舎」とはあの「館」のことであって、まだ「表現者」へ向かって漕ぎ出だす舟にも乗れないで、あるいは乗り遅れて岸辺でウロウロしている段階だと解してよい。
 
 「体現者」という生き方の目的は、大衆と共に手を携え、慈愛と喜びと正義に満ちた、あり得べき世界を創造しようと務めることにある。その大衆との共同を計る際、他者との一体や時空の共有を以て共感を得、励まし或いは励まされ進むのであるが、「体現者」は、己の人格(即ち自身の仁義忠孝悌礼智勇と培ってきた思想信条や信仰)と、己の過去と現在の「生き様」 ― 存在 ― を手段として歩む。人間として考えられうる最上級の手段とあり方である。
 かつて枝雀師がおっしゃった「舞台に出てきて何も喋らずニコニコ笑っているだけでお客様がご満足される」状態は上記の説明を換言している例である。また彼が目指した理想の姿だけでなく、あらゆる聖者、思想家、偉大な統治者や政治家などは「体現者」として歴史に名を残している。
 それに至る過程である「表現者」は、未だ淡く切ない自身の「存在」を補助する手段として、「道具(己の身体をも含む)」を用いて行うことのみが異なるのであり、ありうべき世界を創造するあり方としては「体現者」の次善である。
 これがために「体現者」に至らんと欲した真の「表現者」に求められるのは、単に自身の商業的成功を目指す才能ある専業者(音業、舞業、笑業、絵・文・筆業など)らと異なり、自分が今そこに生きる可視範囲で時代と共に生き、構成するあらゆる社会の一員として、凡夫ながらも日々汗を流して己の人格思想を鍛え、触れ合うお一人お一人を手を取り励まし、自身の帰属する地域、郷土、社会、そしてその延長線上にある国家や世界に寄与することである。ここにこそ「表現者」として存在する意義があるのであって、財や名誉などとは程遠い精神的成功を目指す神聖なる求道者でなければならぬ。
 かつて過去の拙文において、社会に散在する在野の表現者らをして「大衆の中にあって大衆と共に歩む大衆最後の安全装置の発動」と記したのはこの所謂である。
 「表現者」は大衆に問う明確なメッセージを育成保持していなければならぬ。彼の社会経験として様々なる階層を実地に俯瞰し、各層の欲求や絶望希望などを角度を変えて理解して、その最大公約数を抽出し大衆に訴え共感を得るメッセージの射出が求められる。
 このメッセージは膨大な体系として与えられることもあろうし、例えば噺の中の僅か一セリフ、歌の一フレーズに現わされるかも知れぬ。これを聴衆の息づかいを肌で感じながら最も効率良い方法でお伝えし、たった一行、二行だけでもをお持ち帰り頂く。これにより今日よりもたとえ1センチでも世界がよき方向に向う誘ないをなすことが「表現者」の使命である。
 私の周りには幸いにも、私を強く牽引する社会人落語の名人上手があまた存在し、私をうならせ強く憧れさせていることは本誌報を省みれば散見することができるだろう。また講演の先達たちも常に私を叱咤激励してくれている。
 「表現者」は様々な分野に見出だすことができる。音楽、舞踊、話芸、絵画、文筆などの芸術芸能の分野には殊の他多い。また「芸」のみが「表現者」のあり場所ではない。「聖」或いは「俗」なる世界にも見ることができた。
 ここ数カ月、様々なるメッセージの射出の場面を見る機会を得た。人生で初めて本物の牧師の話を聞いた。また、ある選挙の立会演説会で候補者弁士の所信演説を伺う機会もあった。
 その詳細を書くと、信条や信仰の問題もあり広く万民に書き記す本誌報の性格から逸脱するので割愛するが、この「聖」と「俗」にもすばらしい「表現者」らがいることが見て取れた。
 「表現者」らはあらゆる場面で「体現者」を目指しひた走りに走っておられる。哀れ凡夫の「表現舎」は、自転車のチェーン切れ、バス賃までもが底を尽き、夜勤明けの警備員のように装備満載の重い袋を背たろうて、踏みわけようとする旅程の長く細いことに驚嘆しつつも、先達らを慕い後を這うてでも追いかけるしかないと、伏見の浜で呆然と立ち尽くしているのである。
 これが「表現舎」なのである。