第1060回 アルパという名の余の謝恩

(本項は一般読者向けではないので擬古文で表し難読化処理しています。了承下さい)
 
 幼き頃手島先生の幕屋と日曜学校に通いし来舞兄あるいは骨基督者こゆきにしか通ぜぬかも知れぬ。余の現下の内的心象を記し残す。本項は余と余の末裔の為にのみ記す。
 水曜。今たびのアルパ、余が平素味はふ不思議、日々感ずるご臨在の妙を泉が丘よりの帰りの電車中でアルパ同卓の先達姉と親しく話する機会を得。姉、紀州橋本の在にして其の妹御前は余と同系の表現舎・言葉使ひ者なり。
 姉、真実を知る者なり。一刻前、同卓にて自身の半生に精霊の如何に働き掛けかつ導き給ふかを振り返り述懐するに余の眼前で感謝に満たされ落涙為すを見る。至高者、気としてあの場に満ち余らと共に在り給へたるを確信せり。余は姉の話に集中し乍余の後頭部の毛髪の逆立つるを感ず。平素余に訪づる感覚なり。余の舞台にて常に助力を受くいと高き方はここにも共に在り給ふか。否、否、こここそが御本拠御膝元なり。
 車中余は姉に言へり。幾たび失敗を繰り返すにも関わらず、飽き給はず懲り給はずして与え給ふるご臨在の妙、独りにあらざる実感と感動を。かつまた己の能力を超へたる御業のご貸与の感謝を。
 思う。独りにては不可なり。独りならば哀れ凡夫の能力を超へたるあれら舞台と生活の逼迫への不安に自滅圧壊せん。然し乍今志を得させ給ひ意味を与へ余の如き愚鈍者をして其の意味を理解せさせ給ふ。
 余は再生したり。かつての余にはもはやあらず。而して世界に只独りに在らざるを知りて後、余と共に臨み在り給ふ聖なる時を僅かなりとも長く為し給はんと願うが故に今日も突き動かされ舞台に上がり神聖時間を楽しみたり。
 余にとつて真の救いは如何なる時も折れず最期迄語りを走り切るに能う力を余に与へ給ふたことなり。たとえ人の誰も聞かざるも、余の聖なる同行者は余が最後の一言迄聞き漏らさず傍らに居給ふといふ信念が余に芥子粒程もあらば表現舎は決して折れず落ちぬ。斯くの如く確信するに至れり。
 姉、斯く言いを為す。「汝、選まれたり」と。余は選まるるにあらず。玉にあらず。未だ異教徒にしてなり構わず髪振り乱し道を求めもがくのみなり。
 然し只一点の気づきを得たり。余が許に突如として「来給える」にはあらずして余が混沌を這いずり回るこの道の傍らにかねてより「居続け給い」たりしことを。今これに気づきしが故に舞台に在りても、其の行き帰りや昼夜の苦役にも或は友との語らひや玉出の立ち飲みにおいてもありとあらゆる他者を通じた余への導きの妙を堪能し感謝し奉る日々なり。
 帰宅。翌日の舞台に備えサファで一刻仮眠す。貫徹しスライドを作り変えまた仮眠す。