第1048回 北田辺商店街一円 健康まつり2010 総合司会 出演

 米沢さんは、T君と以前世話になった方だ。地域の有力者であるが、気さくでフレンドリーにお付き合い頂いている。今般、区役所にお働き掛け頂いて、北田辺の5つの商店街での活性化イベントに総合司会で起用して頂くことになった。11−16時のうち4時間、声の掛け流し《声を出し続け、イベントをやっているということを来場者に告知するため出力70パーセントほどで喋り続けること》、だ。
 
 健康まつりということで、午前11時から約1時間程度、商店街の役員さん、東住吉区健康づくり協議会と、食生活改善推進協議会の各推進委員約50名くらいの妙齢のおばさま方と、健康啓発パレードを行う。
 おばさま方と隊列を組んで、たとえば僕が「食生活を改善して、健康な生活を、送りましょう!」とシュプレヒコールすると、おばさま方が「送りましょう!」などと声を合わせて合いの手を入れて頂く、これを歩きながら言葉を変えて繰り返すというやつだ。反中デモなどで愛国者らが整然粛々と行うパターンとでも言えば解りやすいか。
 放っておくとバラバラ・ウニャムニャ・ボソボソな、或いは単なる歩き雑談の時間になってしまう可能性が予想される。卑しくも表現舎がご関与させて頂くのならば、如何にパレードという乱坊に未知の環境であったとしても、おばさま方との一体・連帯や時空共有のヴィションを求めず、お時間をこなすだけなら、僕はここに存在する意味がない。
 健康を啓発することを願い、副次的に、その舞台としての商店街に賑わいを創設する一助と為すには、まずは声を引っ張る表現舎がおばさま方と楽しみ、それによりおばさま方お一人お一人が元気に楽しんでパレードを行うことが必要である。嬉々としておばさま方がお楽しみなるお姿を商店街利用者はもちろん、商店主の皆さん方にチラ見して頂くことで、(日本全国で忘れ去られつつある)商業集積が本来、人の集う舞台であり、楽しい空間であったことを思い出して頂くための誘ないを為すること。 − これは商店街だけではない − 人が集うあらゆる空間(福祉・地域も含む)において、与えられた本来の(第一順位の)目的である、愛と正義と喜びを現出するための手段として、「笑顔」や「笑い」を利用しようと企てられた見えざる手の計らいにより、才能のない凡夫がその「道具」となりたいと志をもつに至り、失敗に次ぐ失敗にも心を折られることなく、機会を与え続けられる。これが先ぶれとして道を直くするためにやってきたメッセンジャーに過ぎぬ乱坊が関与させて頂く見えざる手の導きであり次順位の目的である。換言すれば「準備」という名の神聖な使命である。これを本当に実現する真の表現舎は、僕のあとからやってくる。
 地域住民の懇願によって伐採をまぬかれ、今も歩道に悠然とたたずむ北田辺商店街入り口に生えた歴史ある楠木の下で、天を仰ぎ諸手を上げて、この想いに至らせてくれた「貴方」に感謝する。
 
 役所の方にお願いし11時の開始前に、おばさま方にご集合頂く。得意な年代層だ。着物だからすぐおわかりになられた。何人かのお目が高いおばさま方から、様々なお声が上がる。
 「あ、いきいき教室で来てくれはった乱坊先生やん!」
 「ほんまや、乱坊ちゃんやがな」
 「乱坊ちゃん、こんな仕事までして。細こう回ってえらい荒稼ぎやな」
 あほな。ネームバリューのない一介の、在野の表現舎が口だけで生きていくために仕事を選んでいる暇はない。投げかけられた刹那、笑顔で僕は看破した。
 「生きるために喋り、喋るために生きております」。
 まさにNo Talk, No Life.であり、Dead or Talk. なのである。
 
 おばさま方のケツをかく。もっと笑顔で!大きな声で!女学生のように!
 半世紀以上も前の気持ちになった昔の娘はん方は、実につややかな声で「送りましょう!」と声を合わされだした。
 「宝塚少女歌劇のように!」
 この言葉を言ったときが最高潮であったろう、皆さん頬を赤らめ、少し裏声になりながら、歌うように「♪送りましょう!♪」となられていた。たまたま居合わせた保育園児の集団の前では、
 「この子たちに負けぬ幼さな子の気持ちに戻って、声を揃えてっ!」
とやる。もはや80年代に見た南河内万歳一座の声揃えを彷彿とさせるがごとき寸分の狂いない声がピッタリと合った時、おばさま方自身から「おおぉ!」という自身らへの感嘆のどよめきが上がったのだ。
 声が合うと人間誰しもうれしいもので、一体感や連帯感を感じおばさま方は嬉々としてパレードの進軍を行われた。
 
 「乱坊ちゃん、来てもろてよかったわ。今日のパレード、面白かったわー。」
 
 パレードを面白くしたのは僕ではない。平素、時折取り組むナンテ事ないいつものパレードを、いきいきと、嬉々として、彼女たちが自分自身で面白いものにしたのだ。彼女たちが自分でパレードを面白くし、楽しんだのである。僕はその場に居合わせた不思議の確認者、奇跡の証し人に過ぎない。