第1044回 100グラム数千円

あいみん【哀■(注)】(名)あわれみ、なさけ。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用
注:■は民に、枚のきへんを取ったものの下に心。わが携帯では出ぬ。
 
 今、海より深く感謝してる。請い願わずとも日々の糧は与えられる。
 朝、表現舎の細々とした諸活動を裏で支える労働に疲労困憊して惰眠をむさぼっていた。けたたましく着電を受く。社会人落語の落語大学における大先達たる関大亭狂角師、その人である。寝起きで頭が回らず、僕はあっさり本題に入る。
 「何です?」
 「肉持って行ったろ」
 「は?」
 「肉や」
 「えぇ、にっ、肉て、あ、あああ、あの肉でございますですか!(あわてている)」
 狂角さんは定年後、ご友人の高級肉店で勤務しておられる。キタの某有名百貨店の進物部門を受け持つと聞くから老舗の名店であろう。以前からウチの娘たちに本物の牛肉を一度食べさせてやりたいと(娘らに哀■の情をお示し下さるのはありがたいんだが、どうして僕じゃないんだ?)、100グラム数千円相当の高級進物用牛肉を、「やる」、と宣言されていたのだ。それが今日だ。
 「玉出のスーパーサンエーの前で!」
 「わっかりました」
 おっ取り刀で待ち合わせ場所に走る。自転車はまずい。籠もないし、箱の大きさがわからぬ。リアルに玉出の大地をダッシュする。あたかも「太陽にほえろ」で追われて逃げる犯人さながらの必死さである。が、ベクトルの方向は反対だ。高級進物用牛肉に吸い付けられているのだ。
 「肉っ、肉っ、肉っ、肉っ」
 一足ごとに唱えて走るさまは『愛宕山』の一八茂八の登山シーンを3倍速再生する感じ、といえばわかるか。
 見えた。狂角さんだ。僕は師に目立つように大きく両手を振り、かつ悟られぬように小さく小踊りしジャンプしながら叫ぶ。
 「うわぁ〜、お肉ぅ〜」
 この際、もう狂角さんはどうでもいい。僕の目は、師の抱えている箱に集中した。近づく。狂角さんは1キロの肉をスライスして一枚一枚薄いフィルムで包まれていること、残ったら冷凍して保存すればいいことなどをご説明して下さったが、僕はまたこっから家まで走って帰るのだ。体を冷やしてはいけない。
 「肉っ、肉っ、肉っ、肉っ」
 その場駆け足をしながら、つぶやいて箱を凝視している。師のご説明が一段落したと見て取るや、僕は愛しい牛の小箱をガルルゥとひったくるよう受け取ると、お礼の言葉もそこそこに、また元来た方にキビスを返して駆け出した。脱兎のごとくっちゅうやっちゃ。重い。重いぞ、ズシリとくる。愛くるしいたんぱく質の重量感に掛け声のリズムも変わる。
 「肉ゲットっ、肉ゲットっ、肉ゲットっ、肉ゲットっ」
 自宅マンションに着く。エレベーターの中でもその場駆け足。玄関に殺到しカギをあけるとキッチンに直行。無駄のない手捌きでフライパンを火に掛け箱を開ける。一番槍の御賞だ。
 見よ!おお、一枚一枚が薄いフィルムに包まれている。これか、こいつか!ああ、肉よ、ビーフよ、モーモーカウちゃんよ。君は美しい。君は、君の生涯は、僕の胃の府に誘なわれることにより完結するのだ。僕に生命の神秘を思索する機会を与え、感謝せしめる君の冥福は十分に祈ってやるから心配するな。
 即座に念仏を唱えると、数十枚の切り身から三枚を抜き取り、両手で合掌した。たなごころで解凍するためだ。
 薄く油を引いて一枚を熱したフライパンに敷く。狂おしい脂の匂いに衝動的に茶碗に飯を盛る。そして片面だけ焼いて軽く一塩し、それでご飯を汚しながら肉巻きにして、お口に優しく放り込む。
 うむぅ…。うまい。二枚目を塩コショウでいく。ああ、これもいい。そして三枚目は少量のお砂糖と醤油でちっちゃなすき焼きだ。たまらない。最高だ。キッチンで立ったまま三枚をよばれて飯をほうばる。あとは家族にとっておく。すき焼きがいいか、しゃぶしゃぶにするか。これは要相談である。決戦は土曜夕刻だ。
 まずは狂角さんに感謝。そして牛さんに感謝。ああ、あなた、すばらしい肉です。僕はあなたを忘れない。あなたは僕や妻子の血となり肉となる。これからの生涯を僕たちの一部としてともに過ごすのだ。よろしく頼む。
 
朝、妻の弁当の残り。玉子焼き、おにぎり、ブロッコリー三片。
昼、飯一膳、高級進物用牛肉三片。
夜、飯一膳、味噌汁。
他、QPコーワゴールド一錠。アイソトニック飲料500ml1本。水500ml1本。茶500ml1本。
裸重68.2kg。