第1015回 笑いながら溺れる女

あいたしゅぎ【愛他主義=Altruism】(名)【倫】他人の幸福を増進することを以て、道徳上の行為の標準と為す主義。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用
 
 火曜、S君とご婚儀披露宴の打ち合わせをして帰り、フラフラとネタを繰りながら天満天神定席の前をゆっくりと通った。寄席はちょうど仲入りのようで人が出入りしていた。すると、ちょっと小太りの小さなおじさんが出てきて、大声で電話している。近づくと笑鬼小父貴であった。粋花さんと三喬師を鑑賞にいらしているという。
 仁義を切ってそのまま帰るのは、われわれ任侠に生きるものとして許されざること。終演まで周辺を屯し、お二人の打ち上げの末席に座らせてもらった。様々に話は及ぶ。その全てをここに記すと原稿用紙1万5千を超え、当代存命中の関係者の皆さんのお名前もたくさん飛び出て差し支えもあるので割愛しておこう。
 一件目が終わり、もう帰ろうと立ち上がりかけるというと、粋花師が「も、も、もう一軒いこ、もう、いいいいい、一軒、いこ」とおっしゃる。ここで粋花さんのアルコール飽和点に到達するを目視することができた。師の足の指先から脳幹の中枢まで、血中アルコール濃度0.5 ミリグラム毎ミリリットルに達しておられ、いわゆる法令上の「酒気帯び」もしくは「酒酔い」の状態である。
 二軒目ではすでに粋花師の定番句である「ええなあー」や「最高やなー」を連発しておられる。平常から酒気帯びを経て酒酔いに突入される各段階を、実地に臨床試験できるのは、粋花さん研究者として望外の喜びである。
 われら活動の枢軸・偉大なる小さいおっちゃんの笑鬼さんは、二軒目でだんだんと口数が少なくなり、声が小さくなり、舟を漕ぎ出され、机にうっぷして、最後イビキをかいてお休みになられた。
 お二方が、この酒飲みの経る各段階を隣席で実際に演じてくださるのは、現下「親子酒」に取り組む愚弟に対する、師らの心温まるはなむけであろう。僕はありがたく各段階をメモして、ココロの写真を取り、演じる上での参考とする。
 お二人がタクシーでお帰りになられる。僕は、自転車だったので少し酔いを醒まそうと、天神プロップに寄る。ポケットの小銭をカウンターにばら撒き、マスターに台風の雨宿りをお願いした。プロップに居られたお客様(マイミクとなっていただいた)と楽しく語り、マスターとこの世界の不思議を感謝し帰る。
 
 前回、「嘔吐しながらOKサインを出す紳士」の話を書いていて、以前「笑いながら溺れる女」の話も確か書いたはずだと、過去日誌千有余回をいろいろ検索してみたがヒットしない。書いてないか。後日の記録のためにここで書いておく。
 もう数年前か。小雪だったか(茂八君も居たような気がする、記憶が定かでない)、奈良県宇陀郡の榛原に在る「龍鎮渓谷」に遊んだことがある。龍鎮渓谷とは、榛原の山々から出ずる清流が、室生赤目火山地域(国定公園内)の岩盤づたいに岩目を下りきて、室生ダム湖に流れ落つるまでの谷合の小渓谷だ。
 そのなかに一ケ所、3メートルばかりの高低差を持つ一条の滝と、その直下の岩盤を深くえぐった滝壺 − 水深3メートルくらいある − があり、この一帯を「龍鎮」と呼び、われわれ原住民の子らの格好の水泳場となっていた。
 滝壺の横には、小さな祠があって龍が奉られており、これが名の由来であろうか。滝壺の下流は滑り台のように滑らかな一枚岩であり子供たちに楽しく、その下は浅瀬となだらかな岸辺となっていて大人のデイキャンプや焼肉などの最適のスポットである。盛夏でも水冷たく、長時間泳ぐと唇が紫になるほどだ。
 その日も、われわれ以外に何組かの水遊びのひとたちがいた。なかの一組は、小学校一年くらいの子供とそのお母さんで、子供が泳ぐのをお母さんは岸辺の岩場で日傘を差して上品に見ておられた。
 突然、子供が溺れた(ように見えた)。母は強く、母の恩は海よりも深しとはよく言ったものである。我が子が溺れたとみえるや否や、お母さんは日傘をはらりと落し、着衣のままに、深さ3メートルの滝壺へと勇猛果敢にダイブしたのである。お母さんは帰りの着替えなど持っていなかったに違いない。しかし、何のためらいもなく彼女は、子を想い、ざんぶと深みへ飛び込んだのだ。
 ところが、子供は溺れたように見えただけで、水面に顔を出すと嬉しそうに水底で拾った石ころを持って滝壺の縁の岩場に上がってきたのだった。
 僕はホッとした、子供は溺れていなかったのだ。ほとんど同時だったと思う、飛び込んだお母さんに目線を振った。お母さんは着衣をひらめかせながら水中にいた。
 不思議な運きをしていなさった。お母さんは、もがきながら、顔を水面に出して大きく息を吸うと、また少しずつ沈んでいく。10秒ほどすると、またゆっくり上がってきて、顔を水面に出すと、またゆっくりと沈んでいく。これを繰り返しているのだ。
 おかしい!僕たち陸(おか)にいる数人は顔を見合わした。「これ、溺れているんじゃないか」との疑念が頭に去来した。愛他主義が服着て歩いている僕などは、すぐさま飛び込み彼女を助けねばならない。
 しかし、僕は2秒間ほど躊躇した。なぜなら(ここが大切なところなんだが)、お母さんは、お母さんの顔は、完全に「笑っていた」のである。
 読者には意味がわからない方がいらっしゃるかもしれないので、もう少しく説明しておこう。水中からだんだんと顔が浮かび上がってくる、満面の笑みを浮かべて。そして息を吸うと、また嬉しそうに微笑んで沈んで行かれるのだ。
 僕は皆と言葉を交わしたのを覚えている。
 「おい、笑ってるよな」
 「ええ、笑っているわ」
 状況も状況だ。お母さんは、まるでレスキュー隊員やライフセーバーのいきおいで飛び込んだ。周りで見てる者は、まさかお母さんが泳げないなんて発想すらない。
 「おい、これ、溺れてるで!」
 深いんだが、幸いにも、岩の縁から手の届くところで溺れていらっしゃったので、お母さんの手を掴み、岩場にぐいと引き揚げた。
 お母さんは、岩の上でゼイゼイ苦しそうな息をしながら、「私、泳げないんです」と言って笑っていた。でもよく見ると笑っているんじゃない。
 この方は、苦しさに目を細めると、口角が上にあがり、あたかも笑っているように見えるのだ。全くややこしい表情である。柳家金語楼の笑顔が泣いてるように見えるのと一見似ているが、ベクトルの方向が反対で、危険性が伴う。
 「嘔吐しながらOKサインを出す紳士」を見たとき、思い出したのはこのお母さんのことだった。
 今後、嘔吐している人や溺れている人を見たときは、身振りや表情に惑わされることなくお助けすることをここに誓おう。