第983回 前航空幕僚長・田母神俊雄先生の講演を聴きに行く

あいじ【愛児】(名)いとし子。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。
 
 育った環境や境遇、友人、職場などで、皆さん様々な思想信条に散らばっている。
 民主主義国家である以上それらを調整して実現する方法は、地方自治から国政レベルまで代議員を選出し議論させ多数決で決めるしかない。たくさんの欠陥もあるが「代議員による多数決」は、現在、人類が辿り着いた最高の意思決定システムであるから疎かにする事はできない。
 父系は3代に渡り保守系政党に在籍し地方自治に関与した。その血脈で常に受け継がれてきたのは「住民と共に汗するものに敗者なし」という割りと清廉な家訓であった。
 よくある絶望に「政治なんか誰がやっても一緒や」などと吐き棄てるようにおっしゃる御仁もあるが、僕は未だそこまで落ちぶれてはいない。戦争からこっち忘れ去ってきた伝統的で質素な、本来の日本人があるべきと慮ってきたことを蔑ろにせず、親から子、そのまた次世代の愛児たちへと胸を張って「日本」を譲り渡すべく奮闘する憂国の士でさえあれば、喜び勇んで一票を投じる覚悟はある。
 譲り渡すべき「日本」とは、国民を構成する心身、殊に精神性、誇りと希望、その構成する地域社会、地方行政、文化、産業、教育などの全てを包括する。叩かれひん曲げられて来たが悪いものばかりじゃない。こう思うのは伝統芸能を通じて往時の人々に親しく触れる機会を得たからか。
 
 現在、府議として活躍しているM君に、僕は10年前に堂山町の夢通りで、70年代に僕たちが受けた偏った教育を例に取り、机を叩いて(前歯の差し歯を飛び散らかさして)論じたことを憶えている。
 「左に振りきった偏った振り子は、必ずや一旦熱狂的に右に振り戻され、自らの国に自信と誇りを取り戻した後、中道に落ち着くであろう」と。
 現在のネットでの若年層?の行き過ぎた右傾化はこの熱狂的な振り子の運動と見て取れる。中道に戻るための必要欠くべからざる一過程と見る。情報がマスメディアしかなかった時代は、確かに冷静な中道の立場から見ても、左に振り切った報じ方が主流で、現在テレビに映っているのはその残滓だ。デジタル化移行で、もうまもなく見えなくなるということなのでホッとしている。
 あのときを基点として10年間、静かに政治・言論界を見回してきたが、今後、右左バランバランになって、愛国的保守思考と「そうでないもの」とに離合集散を繰り返し、危機的状況を回避して落ち着くべきところに落ち着いていくのだろう。でないと滅ぶ。
 
 ちょうど参議院選挙期間中であるから、難波高島屋前で待ち合わせしていると、こっちから演説を聴きに行かなくても向こうから順番に来てくれる。
 街頭演説では、民主、自民、共産、日本創新党を聞いた。民主は防戦ぎみ。ああ、何か落語家の車が走ってたな。あれは逆効果だろう。経済が不調なこの時代に、バブル期ならいざ知らず、芸人に政治を託すことはあってはならぬ。
 びっくりしたのは自民党が、急遽、愛国の士に生まれ変わった点である。伝統文化、外国人参政権反対、労働、教育、拉致問題。「日本の!日本の!」と叫んでいた。蛇足ながら、自民党のこの動きはもはや遅きに失した感がある。政権政党のときにもっと明確に打ち出し鮮明にやってくれていれば、国民は現在の迷走政治のような残念な想いをしなくてすんだのにと心から思う。自民党の中にも、国民のため思う政治とは逆走する輩がいたか。それらが排除されない限り、国民の側から再び何かを託す明確な意思表示はできない。
 
 日曜日。賛助の打ち上げの後、ご縁あって「頑張れ日本!全国行動委員会 関西本部設立大会」に出席した。田母神前航空幕僚長のお話を聞きたかったことと、チャンネル桜の大高未貴さんにお会いしたかったから、賛助明けにもかかわらず本町に走る。
 演者は、田母神俊雄さん、チャンネル桜の水島さん、西村真悟先生、八尾の三宅博先生などが次々に登壇され、日本の危機的状態を声高に叫んでいらっしゃった。会場には500人を超えているであろう出席者があった。表現舎には手痛い会費を取り戻すべく、A4に4枚ほどメモを取ったがその詳説はここでは控える。
 このような演説会が開かれていることが、ここ10年でみる大きな転換点だと思う。有意義な会であった。
 帰り際に、大高女史に握手してもらったこともご報告しておく。本物だった。