第981回 堺アルパへのご縁

あいさん【愛餐=Agape】(名)【宗】古昔、キリスト教徒が、聖餐式後寺院に持ち寄りて為しし会食。友愛と慈善との主義を以て行いしものなり。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。

  
 この日誌は、哀れお粗末なれども書き写すに広大に過ぎるわが大脳幹から新皮質にまで至る脳の荒れ野の残像や残り粕の如き徒然を、全て文字列に転記しようともくろむ企てである。
 しかし、まあ、ぶっちゃけた話、この日誌を記録しておく媒体(モノ)に困る。実際、このブログ、ここしかない。
 手帳は、ある。あるがしかし、あれは将来に向けた忘備の紙片であるから、携帯し参照に便ならねばならぬ宿命を持つ。膨大量の雑感を記すに不適である。かつまた失い散逸する可能性がメチャクチャ高い。
 パソコンなどでテキスト形式ファイルなどの電磁気データとして、己のフラッシュやハードディスクに保存する手もあるが、これまでの凡そ30年になるなんとするデジタルデータとの付き合いは、言わば記録媒体の故障損壊によるデータ滅失との格闘の歴史であって、記録の多くは理不尽にも消え去ってしまった。現存するものはしっかりバックアップを取り出した2002年位からしかない。また記録媒体の規格変更や栄枯盛衰は、この滅失に拍車をかけている。
 今や読み取れぬ5インチフロッピーディスク、忘れ去られたスーパーディスク、実は不便だったスカジのMO、規格が違いもはや認識しないハードディスクなどがわが部屋にはゴロゴロ転がってをる。
 もしかしたら中に珠玉の一文が残ってをるやも知れぬと思うと、捨てもできず、さりとて今更つなぎもできず、妻からは「この箱いつになったらほかすんよ、引っ越ししてもう10年なるねんで!」などと罵られ家庭内冷戦の一因となるに至っている。
 その点、このブログのように他者のハードディスクに保存しておく形態は、参照の便によく、滅失の憂いなく、紙や自己媒体での保存に比べすこぶる良い。申し分ない。
 ただブログは、外部からの閲覧に供するその性質上(これが僕の参照の利便性を担保しているのであるが)、いかに自己保存用とはいえ、副次的に他者の閲覧に供してしまう可能性がある。
 その際、当然のことながら、乱坊を知らぬ人が日誌を読めば、何のこっちゃわからん内容や登場人物、あたかも身内ネタや独り言としか聞こえぬであろう。またよく知っていても題材とする事象、団体に関わりない回の場合も同様であり、それら読者の「サイト内滞在時間」は10秒を切る。
 なるべく最大公約数の読者に共通するテーマを提示せねばともがいては居るが出来ぬ。ここはまず以て謝っておきます。どーもさーせん。
 しかし、よく考えてみると、凡そ人間が書く文章は、大なり小なり、身内ネタや独り言なのであって、最大公約数のテーマなど存在し得ないのではないかとの疑問がある。
 人は、興味関心の無い事象はチンプンカンプンであったり、またはなから読まなかったりする。僕もそうだ。
 たとえば、外国人参政権問題や尖閣諸島のことはアンダーラインを引きあれやこれや読み下しても、二酸化炭素の温暖化への影響や捕鯨反対国の戯言などに付き合っている暇はない。これらはどうせ虚偽のデータに基づき排出権売買で大儲けするヤカラのための得手勝手な論考であったり、オージービーフを売らんがために本邦の伝統的な水産食文化をないがしろにする暴論に他なく、根拠のない他人の銭儲けの宣伝チラシを何で読む必要があろうか。
 おいしいうどんの練り方はかたじけなしと押し頂いても、トーテムポールの色の塗り方はどんなに丁寧に書いてあっても、まあ読まん。読んでも「俺は生涯トーテムポールは塗らん」と思ってる読者には意味をなさぬ記号の羅列に過ぎぬ。
 ダークダックスのマンガさんのご病状は読みふけっても、AKB48という文字列は新型の建設機械のスペックナンバーにしか見えぬではないか。
 逆もまた真であって、環境夢見る夢子さんには統治機構や領土問題は興味なく、ナバホ族などアメリカ原住民にうどんのレシピは不必要であり、AKB48はたとえ自分たちが混雑する天下茶屋の角打ちで斜めに詰め並んでも、ダークはおろか「なんやワシらて、ヂュークエイセスやらボニージャックスみたいななあ」などとセピア色の昭和ネタを放つことはないのである。
 あらゆる読者に読みやすく、興味関心沸く記事を書くことなど土台、哀れ凡夫には不可能な所行であって、そんなことができればこんな電網の辺境でしこしこブログなど書いてはいない。
 とはいえ、拙ブログにも熱心読者はおわし給う。日々ページビューを示すカウンタは、あたかも「おのずから回る炎の剣」のごとくに激しく回転しているのだ。
 熱心読者第一の来舞兄などは電話で各回の所感を伝えて下さる(この方の不思議なところは、饒舌極まりないにも関わらずネット上でコメントするのを極度に恥ずかしがるところだ)。
 まあ、今後もご高見に耐えうるように書こうと務めるが、過度の期待は禁物である。気楽に書き殴っている。
 
 水曜日。堺アルパの新シリーズ最終回を迎える。新たなる兄弟姉妹を得、またもや心地よき会であった。毎回の心づくしの愛餐を楽しみに走ったと言ってもよい。
 前シリーズを機会に原典にも当たり始め様々な疑問も抱く。また思う。なぜこの時期に、なぜあの人から、そしてどこへ誘なおうとされるのか。
 いずれにせよ、委ね、あらがうことなく歩む。