第974回 西村清・とし子十三回忌法要

あいごう【哀号】(名)朝鮮古来の服喪期間の一儀式、声を立てて泣き叫ぶこと。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。
 
 12年前、母方の祖父母はオシドリ夫婦であったが、祖母は、祖父の死後3ヵ月後に、正に後を追うように他界した。
 わが両親は僕が幼い頃、貧しく、母の実家に程近き八尾市内の文化住宅に住んでいた。母方の初い孫ということで随分と可愛がってもらった記憶がある。風呂が無かったので全て祖父母の家で入った。食事もよく祖父母と共にした。
 祖父は印判屋で、現在は僕の従兄弟が継いでいるが、常に工房に入り印判の木を削り、石を彫っていたのを覚えている。職業柄、漢籍を深く愛し、書を嗜み、それらを土台に議論をよく好んだ。長らく祖父の居間に掲げてあった額に「游於芸」が掛かっていた。よくこれを釈してくれた。これ諸賢ご推察の通り、論語の「志於道、拠於徳、依於仁、游於芸」が出典である。「道ニ志シ、徳ニ拠リ、仁ニ依リ、芸ニ游ブ」とでも下すか。決心と人格を以て芸に「游」ぶ。祖父の遺言の前に、未だ至らぬ己を恥じ入り顔を赤らめる。
 祖母は名張の女学校出で、わが父方の祖母と級友であった。卒業後も親しく付き合いしていたところ、互いに息子、娘が居るのでこれを引き合わせようということになったらしい。
 その後判明したが、父母両系の祖父らは双方筆に覚えがあった。徴兵で入隊受付の署名をする際、その書く「字」を見た上官から「第四師団部(大阪城)で事務をしろ」と命じられ共に四師団で筆を取っていたという。終戦まで御城におったそうだ。
 この逸話があるので、父母両系から「『字』は命を助く」という家訓を徹底的に叩き込まれた。親父はテレビを見ながら、新聞紙に筆ペンで常に落書きしていたし、僕も娘らには字の稽古をさせている。僕は今でも結婚式、葬式での署名は徴兵入隊受付の気持ちで書いている。
 
 日曜日。母方の祖父母の十三回忌法要を営んだ。
 僧侶の説教は、個対多という表現形態が全く我々と同じにも関わらず客を放す、放す。何を言ってるか全く解らない。僕は心で哀号を叫び髪を掻き毟る。悲しいかな、完全に仏教は崩壊していると見て良い。
 打ち上げは、祖父母がよく行った料亭。献杯から横に妻がいるので酒は若干控えていた(焼酎3合程度)が、親族に請われるまま、賑やかなことが好きだった祖父母への思い出を胸に下手に着座、十三回忌に相応しく、二行小咄13連発を皆で楽しんだ。
 最期に全員を指導して
  甲 ハトがなんか落としていったで。
  乙 ふーん。
を皆で上下つけさせて唱和。奇妙な一体感を楽しんだ。
 実に厳粛荘厳な十三回忌法要であった。