第966回 愛弟の厚情に謝す

あいぎょう【愛楽】(名)【佛】親しみ好む心。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。
 
 愛弟・茂八君より立ち呑み寺嶋の誘いがあった。困窮を理りに今回断念の意を送れば、即座に、現下彼の取り組む「抜け雀」の稽古を見てほしい、との依頼に転ずる。心憎し応戦である。心地よき礼節を満身に受く。謝してその依頼に謹んで応諾する。
 午後6時、難波ハッチ下の渡船場横にて彼のお稽古を鑑賞する。自宅より娘らのレジャーシートを二枚持参したるを彼の膝下に敷く。稽古鑑賞し終わりて所感を告ぐ。
 言う。君の齢厄年に、懸る話に出会うは幸いである。殊に話中の父の描きたる篭の絵に平伏し不孝を詫びる息子の描写たるや本編一の力点なれかしと願う。彼の言う。孝行をしたい時分に親はなしと。お父様の御他界から十年ばかりたったことを聞き矢の如き光陰に驚く。かつて余も世話になった御母者人によしなにお伝えを願う。
 また後に彼の言う。この噺は宿屋の主と絵描きの友情を表すと。金で絵描きを待つのでなく、信頼と友情を以て絵を売らず彼を待った解すべきという。然り、然なり。この一点を以て「抜け雀」は彼の生涯追い求める愛楽すべき噺となるであろう。伝えたいものありて噺をなさば必ずやお客様に伝わらん。余らはそのたった一行のために噺するなり。
 稽古終了。而して共に道頓堀川を眺め乾杯軽飲す。彼の礼の杯をかたじけなく干す。ワンカップ一杯。嗚呼、良き時哉、良き漢哉。
 余は彼の半生の観測者を自認す。互いに良き日あり、苦しき日あり。二人して彼最高の「景清」は最高に彼の尖りに尖った日々に現出したことを共に思い起こす。難波で罵倒し合い喧嘩別れした昔の思い出は、全てあの「景清」創造のための、「貞次郎」の他人格摂取のための一過程であったやも知れず、その旅程を傍らで同行できた喜びを観測者として懐かしくかつ嬉しく思う。
 人の生に不必要なるものは一点もない。彼我の現在および将来のあらゆる悶絶苦悩が明日への梃子となることを祈る。彼の厚情に謝して住之江に帰る。