第962回 世界宗教三部作への御礼

あいがん【哀願】(名)なげきてねがうこと。事情をうちあけてねがうこと。哀訴。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。
 
 代々、神社の氏子であった。また融通念仏崇の檀家で、地域の村落共同体コミュニティーのお世話などを少なからずさせて頂いてきた家系であった。所謂、土着のプリミティブな宗教観しかない。未だにあらゆる地蔵に手を合わす癖がある。
 実家には狭いが皆が「納屋」と呼んだ建物があり、そこには様々な骨董品と共に祖父の書棚が置いてあった。中には地方自治を初めとして各種漢籍、歴史物、美術工芸本、百科事典など様々な書籍が堆く積まれていた。
 小学校の一年の折に祖父は他界していたから、僕は小学校の高学年くらいにはその書棚を自由に漁り、それらに触れる自由を得ていた。ほとんど意味は解らなかったが。蔵書されたのは概ね戦前から戦後まもなくといったところの書籍群だったろう。殆どが正字正仮名使いであったので読むのに困難を極めたが、僕にとって薄暗く黴臭いその「納屋」は実に楽しい知的空間だったのである。
 その中で一冊の本が僕の目を引いた。妙に綺麗な本でカバーがまだ新しかった。取り上げたその本は、な、何と、現代仮名遣いで、おまけに全漢字にル、ル、ルビが打ってあったのである。
 「ああ、現代日本語というものは読むのが大変楽なものだなあ」とホッとしたのを覚えている。
 この本には、イスラエルで大変難渋なされた男の人の話が載っていた。厩の皇子みたいな生まれをして、沢山の例え話の演説をし、ローマに処刑された男の人の話だった。初めの4つか5つの話はストーリーを追い易く大変解りやすかったが、後半に乗っていた手紙の類は余り面白くなかったような気がする。
 当時読んでいて、特に目を引いたのは裏切った男の話だった。裏切りに至る心の動きが雑駁に書き殴ってあるだけで、なぜ裏切ったのだろうと不思議に思ったものだ。とにかく裏切った男のことは味噌カスに書かれていて、異教徒ながら、数千年後にもこれだけぼろ糞に書かれるこの人は、エライ気の毒ななあと感じたのを覚えている。それともう一点。神の子が死ぬる時、どうして「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と疑問を呈したか。難儀の中での前後の感情の流れが唐突で、ここだけ小学生の僕には理解不能であった。
 当時、存命していた祖母に哀願しこの本を貰ったが、だれもこの本がなぜ書棚に入っていたのか経緯がわからなかった。氏子で檀家の、書棚の主の死後のことだ。リビングバイブル日本語版の初版だったと思う。この本をはじめとしてあの書棚の本は全て散逸してしまって今、どこに行ったか解らない。
 後に様々な本を鯨読するようになるが、異教徒として、随分若い時分に西洋文化の基底に流れる思想の原典(意訳だけど)に触れたことは大変意義深く、それが後の大学卒業旅行での「シナイ山頂行」や現下の「水曜アルファ」に繋がる導きであったのかも知れぬ。この詳細はまた別の機会にでもお話しよう。
 
 突然、宗教の話で驚かれるかも知れぬが、社会福祉協議会の西区での講座では2行小咄をみんなでやる。その中の例題で「世界宗教三部作」をやる。これは玄張君のネタのまんまパクリである。感謝。
 「剣道三部作」、「うどん屋三部作」、「タバコ屋のおばあちゃん」と共に鉄壁である。あ、「タバコ屋のおばあちゃん」は笑鬼さんのやな、すんまへん。