第961回 頬骨打って鼻打たん

あいがん【愛玩】(名)愛してもてあそぶこと。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。
 
 最近知り合いになった長坂さんは、池田おたなのお客様なんだが、呑みに行こうって話になり、天満橋にて軽飲に遊んだ。ご同僚の川治さんにもご同席賜り乾杯乾杯更た乾杯。焼酎を胃の腑収めること幾数合。様々なことを語りあう実に素晴らしい一時を過ごす。
 その帰り、僕は凄まじいアクシデントに巻き込まれることになるのであるが、これは普通に聞くと読者にドン引きされる可能性があるので簡潔に記す。頬骨をしたたかに打ったのだ。数年前に貧血で倒れた時、顔面骨折したところと全く同じ個所だ(本件については本誌既載の「第574回 顔面骨折・肋骨にヒビ」をご参照願いたい)。
 思うに、外界の事物と己が身が衝突・接触するにおいて先陣切って打つところは、その個所が他の個所と比して突出しているからである。上海万博で中国人とともに行列に3時間余り並んだ友朋のレポートを聞いたが、上海人は行列するに間隔を余り取らぬという。よってTシャツ越しに後ろの女性の乳房が背中に当たると言うて彼が思い出しニヤけていたのはこの好例である。
 僕の場合、地面や電柱と接近するにおいて、胸を打つのではない、鼻を打つのでもない、ましてや乳房もない。地面や電柱に愛玩されるのは決まって頬骨だ。頬骨しか打たぬのだ、それも左の!
 これはまるで車の衝突事故の際、運転手はとっさに右ボンネットの追突を回避し、助手席から突っ込んでいくのにも似ている。おそらく僕は、僕の体躯の中の右頬骨に乗車して僕を操縦しているから、危機回避のために助手席の左頬骨を敵・電柱に差し出すのかも知れぬ。左の頬を出しても右の頬は出さぬ不信心者である。
 後代に本誌を解析する未来人は、墓の位置が比定不能となった僕の骨格や頭骨を想像するにおいて、衝突部位の記述から鑑みて、僕の頭蓋はネアンデルターレンシスのそれに近い頬骨の突出した旧人を想像することが難くない。
 僕を知る同時代の皆さんにご確認頂きたいのだが、僕はネアンデルタール人とは大きく異なることにお気づき頂けることだろう。そうだ、僕はあんなに毛深くはない。