第949回 夢見

あい【愛】(名)1、めづること。かはゆがること。いつくしみ。あはれみ。2、をしむこと。をしみ。3、このむこと。すき。4、慕ふこと。こひ。5【宗】キリスト教にて、神格の本質とせる純粹普遍の慈愛。博愛。6【佛】十二因縁の一、五慾を貪ること。 愛屋上の烏に及ぶ(句)《説苑に出づ》人を愛する情の、其の人の周圍の物にも及ぶにいふ。 愛を割く(句)をしく思ふ心を抑えておもひきる。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。

 この拙文は第921回までがミクシー日記からのエクスポートである。これまでにも述べてきたようにミクシーは基本的に閉鎖された顔見知りの間での言論の場であったからして拙日記も暴言極論の羅列であった。放送コードを無視して膨大な駄文を書き連ねてきた歴史がある。
 開放大空間たる「はてなダイアリー」に移転して暫くがすぎた。また生活も啓示以降、経済を旨とする生活から、貧にしても発言と信条を旨とする生活に転換した。開放されたサーバに信条を旨とするべき自身の暴言極論を放つのは些か問題がある。よって全文を再度検証し、削除すべきは削除し、書き改めるべきは書き改め、罵倒を穏やかな表現に加筆修正するのに膨大な時間を要した。やっと終わった。
 このブログに始めてきた方に再度ご案内しておく。第900回の「再序」で述べたように本ブログは乱坊の活動報告ではない。
 この中で本ブログを「乱坊の薄き体系を書き殴る文集」と定義し「乱坊の脳髄の襞々や脳陰唇のビラに残りたる一抹の思い出、僅かな残像までを赤裸々に書き殴ることにより、余が脳幹から大脳表層の全体を書き写すべく努めよ」と怠惰な自身をキーボードに立ち向かわせるべく鼓舞し、その目的を後代において「21世紀初頭の一凡夫一市井が何に関心を示し、何を重んじ、如何なる煩悶を繰り広げたか、如何なる市民生活を送ったかを知る一級の一次史料」となることを希望しつつも、愛する三人の「娘らに遺す父の生きた証である。彼女らに全てを語り尽くさぬ内に逝く父の遺言であり、その中から彼女らが血脈の残骸を探しだす縁(よすが)」とするよう望んでいる。
 ルールは簡単である。前段に引用する辞書からの一語が本文中に入っていればよろし。今日はもう入ったから後は流す。
 
 今日(5月13日)の未明、おかしな夢を見た。薄暗いホールのエントランスだ。若い子達が荷物を運んでいる。私はそこで壁に貼ってある進行表を見て初めて、この会が落語大学OB会喜六会の50周年記念寄席であることを知る。
 自分が出るのかどうか解らないので、進行表を見て探すのだが薄暗くてよく見えない。するとエントランスの扉が開いて光が差した。誰かが来たのだ。誰だ?扉の方を見るとそこには桂春之輔師匠と、いけだ落語ミュージアムの館長の浦田女史のお姿が!
 ご挨拶して楽屋へご案内する。ご案内しながら不思議に思う。なぜだ?なぜ50周年記念寄席の準備にお二人が楽屋入りするんだ?
 ここで目覚めた。不思議な夢だ。前日寝る前に春之輔師匠の牛の丸薬を聞いて寝たからか?浦田館長さんは先日道で会ったからか。不思議だ。