第926回 坐摩の前に心中

 エープリルフールの夜のことだ。風がきつくまるで台風の晩のようだった。娘達は窓の外の風の音を大層恐がっていた。
 消防車のサイレンの音が遠くで聞こえた。こんな夜に出火したら団扇で扇いでいるようなものだから大変なことになるだろなと思って焼酎を飲みながら聞いていた。
 ところが、そのサイレンの音がどんどん近づいてくるのだ。
 「近いぞ!」
 僕の声に天寧は身を強ばらせ、まつ梨は妻にしがみついた。そのサイレンの音がどんどんどんどん近づいてくるではないか。
 「うわー、こりゃあ近い!」
 僕はベランダに飛んで出て街を見回した。どこだ!
 見えた!消防自動車だ。遠くの角を曲がって、ウチのマンションの南側の路に消防車が進入して来た。サイレンと鐘の音はフルボリュームになった。
 うわーぁ、近い!この路を通っていくんだから、火の手も見えるんじゃないか、どこだ!どこなんだ!
 マンションの前を通り過ぎていくと思いきや、ななななななななんと、消防車はマンションの前で停車した。
 「ん、エンストか?」
 すると宇宙服みたいに完全装備の消防士さんたちがバラバラっと散開し、操法大会さながらにホースを転がしてウチのマンションのエントランスに向かって走って行くのである。この一台ばかりではない。様々な方角からサイレンは聞こえだし、周囲の路はあっという間に消防車だらけになったのだ。
 「う、ウチのマンションだっ!」
 ベランダから飛んで入ると家族に叫んだ。まつ梨は泣き出した。何階かは解らない。もしかしたら一階下、否、同階かも知れぬ。如何に鉄筋コンクリート造とはいえ延焼の可能性もあるではないか。
 この突如訪れた緊急事態に慌てふためき、僕はすぐさまPCの電源コードやネットワークケーブルを引き抜こうと必死になった。こいつだけは絶対に僕と共に避難しなければならぬ。
 全てが燃えてしまっても良い。いや、燃えてしまったら良い。このPCだけは。万一、僕が、僕だけが焼死し、このPCだけが、このHDが、この世に残り僕の遺品として内部データが世界に公開されることになったら。世界どころか妻に見られたら。アカウントを別に設け、家の中であるにもかかわらず厳重に幾重にもパスワードをかけてきたのだ。
 別に、違法性のあるものが入っているわけではない。が、長時間をかけて集めた個人調査研究目的のための名演の音源をはじめとして、あんなものやら、こんなもの、それに嗚呼、あんなものまで入っているではないか。殊に、若い頃に書いた、今読めば耳の付け根まで真っ赤になるような恥ずかしい文章などもある。ご同輩諸君も充分にご理解頂けることであろうが、考えただけでも恐ろしいことだろ。
 全てのコードを引き千切るように抜き去り、僕はPCを小脇に抱えて宣言した。
 「避難する要のありやなきやを見てくる、暫く待機せよ」
 妻はソファーに寝っ転がり、煎餅をかじりながら
 「残ってるのウチだけやったりしてー」
などと笑っている。のんきなヤツだ。
 恐る恐る玄関扉を開ける。煙は見えぬが、確かに焦げ臭い。PCを抱える腕に力が入る。ほとんど全軒といってよい皆さんが通路に出て階下を見てる。だが火は見えぬ。家族に
 「近隣階ではない。下へ斥侯に行って来るからそのまま待機!」
と言い残し、エレベータを避け階段で一階へ。
 一階は、既にごった返していた。消火作業を指揮する本陣のようなところの周りで、邪魔にならぬように立ち聞きで消防無線を傍受したが、どうやら中層階でボヤがあったようだ。消防隊員の方々が室内に入り、水道水で消火した、と聞いた。
 消火作業指揮者はかっこよかった。小机にマンションの図面を広げ、仁王立ちになって現場の階を睨んでいたが、完全に消火したとの報を聞いて、たった一言こう言った。
 「去の」
 ずっこけそうになった。
 僕は安全を確認すると、ホッとして、パジャマ姿で階段をトボトボPC抱えて、部屋に戻っていった。
 今度、こんな緊急事態があったときは、ぐずぐずせずにPCを完膚なきまでに叩き壊すしかない。
 気をつけろ、各位。