第903回 最初のトラップ

あ【畦】(名)あぜ。くろ。「畦(あ)をだに未だ作らざりけり」。― 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行昭和12年1月25日新訂360版より引用

全く物知らずである。
辞書本文に出てくる短文は、適当に書いてあるんだろう、と思っていた。が、これを調べると中々由緒正しい言葉が書いてあるようだ。ネットがない時代なら知らーん顔して通り過ぎていた。
今日の辞典本文の短文「畦(あ)をだに未だ作らざりけり」は何のこっちゃいなと思っていたんだが、どうも『射恒集』たらいう本に載ってるようだ。その中の「木の芽はる時になるまで苗代の畔(あ)をだに未だ作らざりけり」と一致する。祝詞(のりと)関係の本に引用があった。『射恒集』が一体如何なる本なのかは解らぬ。滅茶苦茶有名な本なのかも知れぬ。が、余は文学史でもお目にかかった記憶はない。
前回の「足(あ)」の短文「足(あ)の音せず」は、どうやら万葉集巻十四3387の詠み人知らずの歌にある。「足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間(まま)の継橋(つぎはし) やまず通はむ」が出典のようだ。通釈は「足音がせずに行ける馬がほしい。そうすれば、葛飾の真間の継橋を通っていつも恋人のもとに行くものを」というらしく、千葉県市川市辺りに居たストーカーの祖の話である。
万葉集のことも余はあまり知らぬ。柿本人麻呂の「東の野にかぎろいの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ」でお馴染みの、郷里に程近いアキノ(宇陀市大宇陀区)での歌を知るのみだ。他に諳じられるものは今思い付かぬ。山辺赤人の墓の僅か5キロ圏内に住んで居たのに「足の音せず」は初見である。知らぬ詠み人、申し訳ない!
だが、ちょっと待って欲しい。
この廣辞林は、古語辞典ではない。一般大衆向けの360版を重ねた普及廉価版である。当時の文部省仮名遣い改正答申案に準拠した最新の辞典だ(今となっては、それも文語調の正仮名正漢字歴史的旧仮名遣いだが)。その当時の、謂わば当代現代語辞典に、万葉集の用法が何の断りもなく、出典も明記せず、当たり前に引用してあるのは如何なることであろう。「足の、畦の上古の謂い」等と断りを付さぬのは何故だ。
考えるに、一に、当時の知識人らは、上古の言い回しを時代の区切り目なく当時も、普段使いの(文語体の)筆記に用いていたか。
二に、はたまた出典を明記せずとも、当時は一読で「ああ、あの、万葉集の!」とか、「ああ、あの、射恒集の!」とかを当たり前に言い当てる文化的背景があったのか。
三に、民衆とは乖離した編纂者のマスターベーションであったのか。
四に、単に余が知らぬだけか。
疑問が深まるばかりである。
しかし、10万語の言葉の林のホンの入り小口、まだ三歩程を分け入った序の口で、こげなことに頭を悩ましている場合ではない。淡々と短文作りの宿題をこなす小学生のように、牛のように歩こう。
先は長い。