第901回 【新連載】『乱坊雑文集成』またも始まる

あ 口を廣く開き舌を低くして発する母音。五十音図にて「あ」行の第一に位し、「あ」列の「か」・「さ」・「た」・「な」・「は」・「ま」・「や」・「ら」・「わ」の韻となる。― 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行昭和12年1月25日新訂360版より引用
 
「あ」。驚きと不安の感情が入り混じった女学生の乙女のような小声を発して、余は実家のリビングにドウと横向きに倒れた。
平成22年の元旦の夜だった。大晦日から延々飲み続け、都合二升半合程になっていただろうか。親父、弟らと天下、国家、地域、一族を論じ、お節と焼肉を肴に、ビール、賀茂鶴燗・冷や、老酒、焼酎、ウイスキー。酒棚にあるものを片っ端から鯨飲した。記憶は断片的である。が、風呂に入ると強く主張し、湯上がりの上での狂態であった。平衡を失い、足を取られてもんどり打った余に、天寧は顔色を変えて駆け寄り言った。
「死んじゃダメぇー、お父さん、死んじゃダメぇー」
彼女は余に泣きすがった。まだ死ねぬ。まだ死にませぬ。今少し今生を楽しませよ。翌日、起きたら娘に説教された。
「もうお父さん、お酒はダメ。それからタバコも。夜に仕事行くのもダメ!それから、転けない、怪我しない、倒れない!それから、大きな声出さない。大きな声出して怒らない。特に宿題しなくても天寧を怒らない!それから、私を大阪中の博物館と遊園地に連れて行くこと。それから、スケートとディズニーランド、USJも。それからDSを買うことと、それからそれから…」
どうも途中から方向が変わったみたいなんで、布団を深く被りもう一度寝た。
 
「あ」。驚きと喜びの感情が入り混じった厳寒ロシアの初老の農奴のような声を発して、余は愛娘・まつ梨の顔を見直した。一月二日の午後であった。余は、よく冗談で言う。
「まつ梨、ティッシュ取ってくれ!」
「お父さん、自分で取りいやー」
「こら、お前、何のために生まれて来たんや!お父さんのお手伝いせんかー。ティッシュ取りたまえ!」
この日もいつもの定型句を言ったつもりであった。一族が寄って食事をしていたとき、何かを取らそうとまつ梨に言った。
「こらー、お前、何のために生まれて来たんやー!」
彼女は、一族みんなの顔を見回して静かに言った。
「みんなに、会うために来た」
6歳児は、何の考えも無く言ったに違いない。しかしそれは全く真実に聞こえた。
「よくぞ来た」
思わず手を合わす。まぢびっくりした。