第807回 社会人落語初代日本一決定戦(下巻)

池田大会の所感を記しておく。傲慢に読める箇所があれば、それは僕の筆下手が引き起こすやむを得ぬ稚拙さで他意はない。
結果発表とその後に社会人落語界で起こった動揺や混乱については、これまで皆さんが一連を何とか理解し胃の腑にストンと落とすべくあらゆる角度からの論考を試みてくれた。議論はプロアマの違いや社会人落語の有り方に言及され(無眠師、やん愚師、猿君、風鈴君ら)、所謂「学生落語の落武者の残党」である僕には理解難渋したが、概ね今は混迷の時期を抜け、議論収束、皆さんが大会の意義を肯定しようとする理性的な方向に向かいつつあるように思う。正に「落語マンバイブレーション=ポジティブ」である。見倣う点は甚だ多い。
僕も大会や審査に何らの不満もない。当初から述べる通り、順位を付けるのは困難が付きまとうことは当然であった。いかなる結果であっても誰かには疑問や問題が残ったやも知れぬ。
この動揺や混乱は主催者側の問題ではない。僕や僕らは何かを勘違いしていたんだと思う。しかしその勘違いが僕らをして精進に追い込ましめたのであり、そしてこの会が他流の皆さんをより深く知り、他流間の交流を促す機会となったことは功績となった。実に「祭り」であったのだ!
僕は、出馬の決意から本番、発表、そして落選と、実に興奮した。今回の出場は、落大40周年寄席、古今東西落大寄席、第2回砂九感謝祭等の数年に一度訪れる記念碑的な位置付けの寄席として僕の中に永遠に記録される。
入賞すること―。それはあたかも学生の頃の学外公演に似て、自身の成長を信じて取り組むべき魅惑的な一里塚となった。親しい仲間の懸命の取り組みに加え、他流試合、時間制限、プロ審査員によるコンテスト形式の三条件が重なった、僕にとって未体験なことがこの興奮をより高らしめた。僕は見事にこの形式にはめられたのだ!
当日、僕は他流試合の楽しさを満喫した。字義通り、尊敬する世界トップクラスのグレートアーチストの方々と夢の競演ができたことは生涯の思い出となった。また不知の名人の存在は、この世界の広さを痛感させた(殊に江戸系の名演は勉強になった)。
その中で厳しい時間制限を意識しつつも、座布団に着座した途端、お客様・自分自身の双方から離れ、冷静に「乱坊」を後頭部から客観視できたあの瞬間、久々に取り戻したあの感覚への驚きと高揚感は、実に刺激的で、再びこの世界が美しく見えたものだ。
今回の150の演者たち(見たのはマグノリアの一部だけだが)が、皆ギンギンに極った状態で来ていたことを僕は忘れない。特に生来が怠け者にでけている僕は忘れちゃならない!みんな頑張ってるんだな。壁に向かって狂ったように!嗚呼!
実は、今回のネタ選びは以前大失敗したリベンジなのだが、過去日誌にいう文子(62歳、吹田市在住)は今回の蛇含草に「乱坊○ひとつ」くらいはくれただろうか。
今後も全国でアレほどまでに壁に向かって研鑽している同好の士がいることをしっかとイメージして、壁の良き相談相手たらんと欲するものである。
以下は数ヵ月後にはこれを忘れて怠け呆けているであろう自分を激するため、将来の自分に対し言うておくものである。忘れっぽいのでどもしゃない。
乱坊よ、いやしくも高いとこから人前で語るのであれば、それはお客様の大切な人生のひとときを時間借りするのであるから積み重ねと準備を充分過ぎる程に行って失礼のないように事に当たらねばならぬ。全ての素人の公演は、木戸銭の有無にも関わらず、お客様方から拝借する人生を時給換算した員数分の総額のやり取りが前提となった高額な有料公演である。この精神が欠如した「積み重ねと準備」が充分でない舞台はアンケートで「乱坊××××」という誠に不名誉な全否定を与えられる堕落に他ならないのであって、これは「乱坊、死ね!」と言われているのと同義であることに思いを致せ!
乱坊、お前も気づいているように、この堕落精神を当日の会場で、最も解っているのは第一に数年前のあの日のように準備を怠り舞台を迎えた「君自身」であり、第二にそれを聞いて頂いた「お客様」である。公演には残念ながら「君自身」と「お客様」しか居ない。斯くて公演は全員で君の堕落を噛み締める悲劇的空間と化すのだ!忘れるな乱坊、お前はかつて「××××」の悲劇を見た。
乱坊よ、貴様はルビコンを渡れなかった一素人である。社会人として所謂「社会人らしい落語」に努めねばならぬ。社会人らしい、素人らしい落語とは何だろうか。
玄人は生活の全てを「積み重ねと準備」に当てることができる恵まれた環境にあるが、素人は所謂生計を立てねばならんので、準備に割く時間は限られ、比して極めて不利な状況を強いられる。よって素人ならば準備に割く時間をより高いモチベーションで密度の濃いものとしなければならぬ。仕事や本業があるから準備がでけぬと言い訳をするくらいなら、すぐさま見台やみな叩き壊して「切手収集」や「包丁研ぎ」など「お客様」を巻き込まぬ単独系の趣味に没頭すべきである。
玄人は才能や経験に満ち溢れ知名度や権威があるが、社会人は凡夫に過ぎぬので、無名の一市井として、見ず知らずの初見のお客様の前でお心をしっかり掴めるように己の技芸と精神と思想を鍛えねばならぬ。当日のノリや、アドリブなど本来努力し尽くした人間が最後に触れる神の領域の神聖な部分に、舞台前から身を委ねるのは不遜である。またもやすぐさま見台やみな叩き壊して閉門の上永年蟄居すべきである。
玄人は華やかな芸能界において自身の商業的成功という崇高な理念に基づき諸活動を展開するが、素人は一生活者かつ地域コミュニティの一員として、その究極は呼んで頂く主催者とお客様との間の連帯感や一体感を醸成し、失われた地域コミュニティの再生や温もりある繋がりを互いに手を取り合って微笑み確認し合い、現代に往年の人間や社会が仲むつまじく寄り添うて関わり合い生きていたことを共に回顧し、或いは新たに紹介することで、殺伐とした社会に潤いを取り戻そうと強く願う各層の要求に励まされて活動する。
お客様と自分自身が意識すると否とに関わらず、様々な場面で素人までもを呼んで落語の実演を求められるのは、戦争からこっち、社会で何もかもが変わり果ててしまい、伝統的で質素な地域コミュニティを重視してきた日本の民族精神が失われつつあるのを、必死で食い止めようとする民衆の最後の安全装置の発動である。
素人は自身の成功や名誉、栄光が目的なのではなく、上記の世界観実現のための媒介者であり小道具に過ぎぬという自覚に基づき、社会を象る一助としての使命と大義があるのであって、大衆の中にあって大衆と共に歩むところに、玄人との最大の差異がある。
即ち、我ら素人は服部阪急商店街の夏祭りで、団塊世代の奏でるグループサウンズブースの轟音に声を掻き消されながら、金魚すくいとフランクフルトの間で懸命に舞台を勤め、客足を止めるのが本来の使命であることを大いに誇りたい。アゼリアホールは分不相応なのである。
これは私見に過ぎぬ。しかしあの日集まった150人が舞台で自分の感受を信じて表現している様を見て、落語と縁のあったことを大いに喜び今後もただ牛のように歩み続けようと思う。各位に願うは請う!今後のご指導を!