第778回 落語選手権

 僕は、今や単に「直接話法研究会」であって技芸・知識を鑑みるに「落研」の称号は名乗り難い。円九君の口癖であるところの「我は学生落語なり」という謂いにあやかれば、「学生落語の残党」や「落武者」などと称した方がしっくりくる。
 これまで、千里山上白亜の殿堂を仰ぎ見て、そこにいる先達等の「高み」に憧れながらも、僕自身は山の麓で周辺をさ迷うてきた。数多の後輩諸君が僕のいた所からドンドンと高みへと登り行くのが見えた。また上の方の傾斜地の草叢に倒れていた先輩たちも次々に起き上がり山頂を目掛けて這い上がって行くのも見た。縁あって落大に触れた者にとって大変嬉しい光景である。僕は今も千里山上の高みを見上げ、それに憧れて居るファンの一人である。
 時折、彼等に手を引かれ、他流の名人上手の皆さんの技芸鮮やかなるを垣間見て舌を巻いた。だが基本的に世間知らずで大海を知らぬ。社会人落語の名人上手の皆さんとも一部御縁の在った(同じ板に乗り現在マイミクにご芳名を頂いている)方々を除いては、殆んど面識が無い。僕は朋友自遠方「未不来」なままの、しがない独立系の蛙である。
 思い出話をする。学生時代。選手権というものに出たことが在る。大学対抗戦で各大学から一名づつで勝負するというものだった。
 僕は、落大は絶対勝たねばならぬと思っていた。内部にもその気概が在った。落大は関大の雄、関西落研の雄の気が満ちており、先輩等を見て実際にそう信じていたし、自分の力量は欠け離れては居たが、僕以降の後代も斯く在れかしと願うていた。
 
 僕は、選手権に出るのが嫌だった。大学対抗が嫌だった。もしこれで勝たなければ落大の名に傷が付く。僕以前の歴代23の世に申し訳がない。身を削り練習を見て呉れた全ての人に相済まぬ。ハレの舞台で低空飛行では情けない事この上無い。これでしくじると唐傘一本、当然ながら内外共に雄では無くなる。その責をピンポイントで可憐で可弱く、愛苦しい一人の演者(まあ即ち僕なんだけれども)の双肩に全荷重で乗せて呉れるな、勘弁して呉れよ、と。
 しかし部室には選手権参加を促す通知が届いて居た。出たくない。が、申込まない訳には行かぬ。おまけに悲しいことに断る理由が何一つ無かった!(当然だ)
 本選終了。発表の合図のファンファーレがなる。司会のMBS角淳一アナが壇上に向かう。
 舞台で発表を待ちながら、僕はおしっこをチビりそうになっていた。膝はブルっている。
 もうダメだ、倒れそうだ。どう倒れようか。後ろに倒れれば即M字開脚、前に倒れれば即モーの姿勢。どちらにしても秘部オロナイン級の非常事態だ。まるで産まれ立ての子馬の様に腰が抜けて、本名:フニャ野フニャ宏の本領発揮である。
 一方、内臓に目を転じれば、胃腸は捻れ、胆汁は渇れ果て、僕のキュートで小さなハートは、沸き立つ味噌汁に沈む蛤の断末魔さながらに、バックンバックン不整脈を連発した。
 この全身の惨状とは裏腹にお顔では、何ぁーんとも思って居ない振りをして、やっと立っているのが精一杯。
 大体、落語などというものは、走り高跳びみたいに数値で決まるものじゃない。その演じる人間の人生観や経験、優しさ、考え方等の腹の切り売り秤売りに値段が付けられぬように、僕のそんなものが初見の新野新先生やなんかに解る訳がない。
 また聴衆や審査にも体調や演じ手の印象もある。一瞬、他のことを考えて、パンチラインやパワーポイントを聞き逃すかも知れぬ。
 何を比べ、何で上下するんだ?ワシのやった富と、可愛いらしかった女子大の初天神(彼女は爆笑を引き起こし好評を博していた)の、何を比べるんだ?完成度、芸風、ネタ選び、経験、感性、軽重、技巧、空気…。バッラバラだ。そして勝ちとは何か?順位とはなんぞや?
 解らん。さっぱり解らん。見るもんの主観しかないではないか。上手いとかおもろいとかも、客観じゃなくて究極は好き嫌いではないのか。優劣を判断出来ようはずもなかろう。
 僕は何を判断され、何をどう評価されるのか。こんな理不尽な話はない!
 はたと思う。部室の机の上の通知を見た瞬間からの全てが吹き飛ぶ。
 
 何 で 俺 こ ん な の に 出 て ん だ ?
 
 角アナが結果を発表するのを待たず僕は逃げ出したかった。おまけにこの時、ファンファーレの音の出がおかしく、角アナは音響さんにやり直しを命じたのだ。ファンファーレを二回やり直させたんだぜ。どんだけ引っ張るねん、このおっさん!
 僕は、まだこれ以上、発表を引っ張られたりしたら、司会の横をすり抜けて客席に飛び降り、出口から大通へ走り、忽然と会場から姿を消すためのイメージトレーニングを開始した。
 もはやこの時、僕はちょっと漏らしていたと思う。落語大学の名前を背負って大会に出るにはチキン過ぎた。下腹部に巻く、紫紺の「心のフンドシ」はもうビチャビチャだった。
 この心のフンドシは、四半世紀を経た今も、当時の精神的な失態を記念してウチのベランダの物干しに燦然と旗めいて居る。時折スエタ臭いをさせながら風になびいて居る。
 以後、順列評価を受ける会には出た事がない。
 
 思い出をもう一つ語る。
 
 賛助に行って、僕は或るネタを懸けた。準備はして居たのだが、自分の中で完全とは言い切れぬ復元で、前半は重く、後半、盛り返しはしたがお客様には少しく申し訳ない出来だった。
 終演後、何故かその日は虫の報せめいたものが有り、いつもは見ないアンケートが気になった。主催者様が見る前に見たかった。この時、僕は「彼女」からのテレパシーみたいなものをビンビンに感じていたのかも知れぬ。
 アンケート群の中で、まるでその一枚を探し求めるように次々と繰って行った。
 
 果たして、それはあった。
 「乱坊××××。もう呼ばないで!」
  
在った、これだ。これが僕を呼んでいたのか。
 好き嫌いがあるのは解る。合う合わぬもあろう。でも普通、嫌なら無視をしないか。何だろう、この「××××」は?
 一体、アンケートにそこまで彼女に書かせる程、僕は何をしたんだ?
 彼女に短い時間で嫌悪、否、全否定をさせなければならぬと感じさせるほど何をしたのか?
 普通に街で出会ったら彼女と楽しくお話できたのか?ネタ本を渡して素読みして貰ったら楽しんでいただけたのか?もっと時間を掛ければこんな彼女とも解り合えるのか?究極的に、根本的に彼女とはダメなのか。一体何なんだこれは?
 勿論いけないことだが、主催者様の目に触れぬ様にその一枚をポッケにそっとしまい込み、共演者らとの打ち上げは、その一枚で散々に盛り上がった。
 僕は、今も時折そのアンケートを見て、彼女がその一枚で何を伝えようとしたのか、僕を見ながら感じた何かに想いを巡らせる。
 アメリカの手紙張りに、××××…。キスかも知れぬ。ホントそう思わせる位、今や彼女に惹かれている。
 これはもしかしたら、彼女…、いや、もう他人行儀はよそう、そう、文子(62歳・吹田市在住)は、僕を彼女なりの方法で叱咤激励したのかも知れぬ。また文子に会いたい…。
 その一枚は、キレイにパウチッコして部屋のよく見える所に飾ってある。最高の酒の肴だ。
 
 何も触れないのもおかしいと思うので、一言書いておく。
 恥ずかしながら、池田の選手権を通過させて頂いた。
 順列評価の会には出ないはずだが、今や僕は単なる「表現舎」だ。関大亭の屋号は、会長に預けている。2次下請、従業員なしの一人親方「表現舎工務店(大工一名)」とかと一緒だ。何も背負うものもない。気楽に自由気侭に惨敗できる。
 出場者を見たが、名人上手勢ぞろいだ。張り切って惨敗を楽しんでくる。
 ネタは僕の永遠の女神「文子」に奉納する。×を4つ貰ったネタ、そう「蛇含草」にした。
 文子、僕はあなたに誉めて欲しいんだ。僕はあなたを探す。いつかあなたに「乱坊○○○○」をもらうその日まで。もしかしたらあなたは池田にも来ているかもしれない。僕は、あなたを探す。
 上下の先達・名人上手に敬意を表す。同じ板に乗れて幸せだ。
 通過しなかった僕の知る我が部が生んだ名人上手が一人いる。彼はこの事象を経て、また高いところに行くだろう。
 僕は彼に練習を見てもらう。7月に見てくれ。