第738回 仏蘭西土産

「重」の字の読み方について、小きみ嬢から私宛に、エコーを通じてお問い合わせを頂いている。

曰く「体重の重は じゅうと言うのに 慎重 貴重の重は 何故 ちょうと言うの ? 表現者様 皆様 教えて(原文ママ)」

「何故か」と問われているのだ。僕なりに頑張ってはみた。恐らく経緯は呉音と漢音の到来時代による違いかと思われるが、「何故」未だにそう読み分けているのか?これは難問である。

これに応うるに、佛弟子として佛門の奥義を極めんと精進するこの私度僧・乱坊入道(ミクシのプロフィール欄参照)が諳んじる八百万余の佛典を全て総点検し直し、それでは飽き足らずパーリー、サンスクリットの原始佛典を辞書を片手に紐解きバラバラにし、或いは佛弟子としてあるまじきことに基督の新旧約から異端各派の聖書聖典、ムハマンドやムスリム神学者らの注釈書までをも読み漁り、老荘孟孔を始め百家の論、ブドゥー、黒白両魔術の指南書まで鯨読してはみたが解は得られず、仕方なく印を結んで独り滝に打たれ、法螺貝を吹き鳴らし、民家を軒並み托鉢し、救世鍋に十銭銀貨を放り込み、護摩を炊き、祝詞を唸り、近所の祠に柏餅を供え、悪しきを払ろうて四柏手を打ち、由緒あるお社にお百度を踏み、早起き会でスピーチをして、挙げ句の果てには「そもさん、せっぱ」と両手の人差し指に唾をつけて二つの円を坊主頭に書いて「しんえもんさーん」などと叫びながら木魚を乱打してみた。

この上記、時間にしておよそ40分もかけた古今東西の神佛への宗教的アプローチのいずれもが徒労に終わる。やはりわからないのだ。

しかし、である。「それらを読み分けないと大変混乱することになる」ことだけは解る。否、混乱するから明確に読み分けているというのがこの解に近いだろう。

平成八年の公職選挙法の大改正(選挙違反による五年の立候補禁止、連座制の新設等)の際にも話題になった重複立候補の「重複」を「ちょうふく」と読むのか「じゅうふく」と読むのかという問題は、たとえ読み違えたところでさしたる問題はない。

しかし読み違いにより騒然とするようなことがある。ここで小きみ嬢の例示を題に検討してみたい。

例えば、あなたがご主人として25、6歳の年頃の娘さんが居るとしよう。娘さんが彼氏を自宅に連れて来るという。来る理由など解っている。今日が「お嬢さんをぼ、ぼ、僕に下さい!」というお定まりのあれだ。この通過儀礼が今日であることが概ね予測されているとする。

あなたは娘さんと彼との結婚に反対している。しかしあなただけではない。あなたの奥さんはもっと強く反対をなさっている。いつもなら休日のあなたはステテコ姿でビールをグビグビ飲みながら、阪神戦のデーゲームなんぞを見ているに違いない。だがこの日はなぜかスーツを着てしまっている。こんな自分も腹立たしい。

ピンポーン。呼び鈴が鳴る。来た。彼が来たのだ。奥さんは「来たわよ」と吐き捨てるように言う。あなたも「来たかー」と天井を力無く見つめる。

彼はあなたに面と向かって応接机の向こうに座る。すると、慈しみはぐくみ育て上げた娘さんがその横に寄り添うように座るのだ。それも気に入らない。あなたはぶ然とする。

そんなに構えてはいけないと思うのだが、ついつい肩に力が入ってしまう。気まずい空気が流れる。お喋りなあなたが何も喋らずに2分、実に2分もの沈黙が流れる。いや、流れてしまったと言った方がいいだろう。

敵も何を喋っていいのか解らない様子だ。これもまた気に入らない。なんなっと喋ったらいいじゃないか、天気の話でも…。そうだ、自分ならそうするだろうと思うし、自分が妻のために今の義理の父母に求婚の儀をしたときも始めは天気の話だったことを思い出す。あの頃は妻も若く美しかった。若い頃を思い出してあなたは思う、じゃあお天気の話でもするか…。そう思ったあなたは激しく首を振ってその思いを否定する。

おかしいではないか。なぜこちらがお天気の話を振らなければならんのだ。そんな話をするのはお前だろ、お前の役だろ、この場合。晴れてますねえ、とか、最近桜が散ってしまいましたねえ、とか色々あるだろ。俺は絶対に天気の話はしないぞ、お前が言うまで天気は絶対喋らない、俺は天気など知らないし関心がないという顔をするぞ、と固く心に誓う。もはやこうなると無言の行である。あなたは独り奥歯を強く噛みしめて頭に浮かぶお天気マークと戦うのだ。

妻がなかなかお茶を持ってこない。お茶でもあればこの気まずい空気も違った形になるかも知れないのにと、台所に目を転じると奥様がしずしずとお茶を運んでくるのが見える。お盆にコップが四つ。それを持って実にゆっくりと台所から一歩一歩確かめるように歩いてくるのである。

あなたはイライラする。奥さんの歩くのがいつにもまして遅すぎるんだ。何をしてるんだ、なぜそんなにゆっくりなんだ!と声を荒げて妻に言いたくなるのをぐっと堪える。平常心だ、平常心で行こう。平常心で行かないと、いつお天気の話を切りだしてしまうか分らない、そんな沈黙に耐え難い自分の性格を知っているからだ。握りこぶしを腿の上で固くする。

よく見ると奥さんは、あなたと二人で銀婚式の記念にフランスに行ったときにお土産で買った、4つで18万もしたバカラのコップに、いつもの水出しのミネラル麦茶を入れて持って来るではないか。何をしているんだと唖然とする。

あなたは心で思う。「こんな男に、ましてや水出しのミネラル麦茶なら別に紙コップでもいいじゃないか」と。しかし奥さんは反対はしていても、もしかしたら義理の息子になるかも知れないこの若い男にちゃんとしたところを見せておかなくてはならない、と思ったのかも知れない。なぜかバカラなわけだ。「そんなバカラー」といつものご陽気なあなたなら絶対に前で間を取って声を張って言うところだが、喉の奥まで出かかったその欲求を必死の思いであなたは押し殺す。

それにしても奥さんが余りにも歩くのが遅い。能の摺足でも牛歩戦術でももうちょっと早いほどだ。おまけに奥さんは額にはうっすらと汗までかいている。緊張してバカラの中のお茶が波立ってコップの端から零れているんだ。

もはや気になっているのはあなただけではない。彼も娘さんも奥さんの摺足牛歩戦術を凝視している。いつもなら10秒で来る台所からリビングまでの距離を2分以上の時間をかけて奥さんが到着した。

奥さんが額の汗を袖で拭いながら言う。

「貴重で、慎重にした(きちょうで、しんちょうにした)」

奥さんが、この重の「ちょう」を「じゅう」と読み間違えたとする。あなたにはこう聞こえるだろう。

「きじゅうで、しんじゅうにした」

この発音が聞こえたあなたは、全てのシュチュエーションを加味してこう当て字するに違いない。

「機銃で、心中にした」

あなたは思うだろう。何!心中だと。妻よ、そこまで君は反対していたのか。心中することだけは決まっていたんだな。抗議の心中。その方法論を考えていたのか、君は。

いろいろ考えただろう。包丁、自爆、毒薬。それを機銃でだと、ああ機銃か!心中の方法もいろいろあろうに、その中でも市民生活の中でもっとも手に入れにくい機銃、すなわち機関銃をぶっ放して心中することを選んだのか。今日の日のために君はそれを秘密裏に用意し、反対の意思表示のためにそこまで思い詰めていたとは。

それに比べてこの俺はどうだ、さっきから俺が考えていたのはお天気のことと「そんなバカラー」しか考えてないじゃないか。ああ、何ということだろう。

君にそんなことをさせる気はない。僕は今まで幸せだった。これからも君と一緒だよ。

すまない、と心でつぶやいてあなたは股の間に隠し持っていた手榴弾のピンを抜くことだろう。

(携帯ではこれが限界)