第643回 悦子騒動をふり返る

十一月三十日の賛助出演の尻跳ね後、打ち上げがしたくて笑鬼師に連絡した。とても誰かと飲みたかったんだ。
師はご自宅での打ち上げをご快諾。しかし返す刀でその旨我が妻に連絡すると、何と家では次女の急な発熱。至急、休日診療所に同行するよう妻命を受く。平素の家庭放任を挽回するの要ある私は急遽師に電話した。
師は何事か取込中で、とも子夫人が応対して下さった。理由を申し述べると夫人は事態を瞬時に理解され「早よ帰ったり」と仰って下さった。
私は「せっかく出汁取って貰ったのにすいません」と詫びた。そして自分の服部本宅への行きたさ加減を表現しようとして次の言葉を発したのである。
「僕も鶏を、そう、生きた鶏を、コケコケ言うてるやつをね、今提げて電車乗ってますねん」
会長夫人とは結構気脈を通じさせて頂いてると思う。夫人は瞬間でこれを冗談だと解ってくれた。「ガハハハ」と笑って「アホなこと言うてんと早よ帰ったり」と仰った。
僕も「小父貴に、今、豊能で貰った鶏と一緒ですが、今日は諦めて連れて帰ります。次必ず連れて行きますから、と乱坊が言うてたとお伝え下さい。ガハハハハ」大笑して電話を切った。生きた鶏を電車で持って帰る、というけったいさが気に入ったんだ。
僕は、その後何度か、この仮想の鶏のことを日記に書いてみた。出来るだけリアルな平素の生活に混ぜて書く。ある詐欺師に教えて貰った手法 − ほとんどを真実で構成し、大局に違えぬ僅かな虚構を、大筋から離れぬように着地点を定めて混ぜる − あえて匿名にするが四国の或るおっさんに見事はめられた時の彼の手法だ。
でもみんなを騙そうとしたわけじゃない。みんなが虚構を虚構と解って読んでくれればと思うて書いた。イメージはジョゼッペ・グリマーニ伊空軍中将の話(初出は落大掲示板)と同じだ。
するとマイミク諸候のコメントに虚実を如何に理解されているか判別不能なものが混じり出した(慌てて鎮火のためのヒントを書いたが)。そして驚くべきことに、最も身近なマイミクにこそ虚を真とする例が散見され始めたのだ。
例えば、尊敬する我が第一番の相方・来舞兄から、何と悦子の安否を問う電話があった時には度肝を抜かれたものだ(勿論、即座に悦子の存在を否定した)。
また、食事日記に鶏肉のメニューばかりを続けると、先達・やん愚師からは
「お前、鶏ばっかり食べて、ちょっとは悦子のこと考えたれよ」とあった。
噴飯した。申し訳ない。あんたええ人やわ。
日曜日、現役のはやて君(彼は現下、検察官任官のために司法試験を受けんと励む秀才だ)と池田の賛助の集合場所に着いた時、マジマジと僕を見詰めるので「何か?」と問うと、彼は驚くべきことを宣った。
「乱坊さん、悦子はどこですか。鞄の中ですか?今日の打ち上げ、笑鬼さんの家で悦子を解体するんですよね」
何を言って居るのだ!あれは虚構だ、創作だ、と説明すると、アングリと口を開け「そいつは詐欺だ!」と力無く呟いた。
貴様、これを詐欺と言うようでは今世紀中の司法試験合格はないぞと断言してやった。これは錯誤だ、錯誤による無効だ。
彼は「今年一年で一番騙されました」と悲しそうに頭を垂れて神戸ルミナリエに心を洗いに旅に出た(女との約束があったという噂だ)。
仲間のうちでもとりわけ笑鬼小父貴、やん愚師、円九君といえば、最も僕を理解する先達、親近者と言っても過言ではない。彼らの狂態は群を抜いていた。近親者であるからこそ僕のキャラクタに翻弄され虚を真と見誤ったのである。あいつ(乱坊)ならやりかねん、と。
打ち上げの前日、会長夫人から電話があった。
「乱坊。あのなあ、笑鬼な、悦子の存在、信じてるで」
僕は唖然とした。「そんなアホな」我が耳を疑う。だってあの人にはちゃんと言った。「これはフィクションですよ」と。早い段階で電話で言ったのだ。ただあの時、あの人は泥酔だった。覚えてないのだろう。
やん愚さんは夫人に電話したそうだ。
「乱坊は必ずその家で悦子をバラして解体するぞ、ベランダは血まみれになり、羽が部屋中に舞うぞ、どうするねん」。
再び夫人は僕に大笑いで電話してきた。
「あかん、やん愚さんも信じてるで」
僕は意を決して言った。
「分かりました。僕がやん愚さんに電話しましょう」
電話をすると彼は興奮気味にこう言った。
「乱坊、お前、あかんで、えらいことなるで」
僕は厳かに言った。
「やん愚さん、大丈夫ですよ。もう悦子も僕も覚悟はできてますから」
電話の向こうで「嗚呼」と彼がうめくのが聞こえて電話が切れた。
 
当日だ。
僕は「打ち上げで笑鬼さんの家に行くのに三年のカボス嬢と悦子を同伴する」旨、別の賛助に行ってる笑鬼師、やん愚師、円九君にメールした。笑鬼師は向こうの打ち上げで「悦子の最期だ」とテンション駄々下がり。やん愚師は「血だ、血が流れるっ」とテンションババ上がり。円九君は冷静に「準備ができましたか」と何度もメールしてくる。
僕は、カボス嬢と近所のスーパー・ライフに行き、鶏の腿肉を2パック買い、段ボール箱を貰ってその中にいれると、事情を知らない彼女にこの事の次第を説明した。
カボス嬢はミクシに居ない。彼女は話の全貌を聞いてポツリと言うた。
「みんなアホですね」
僕も含まれている。正解だ。
僕が二十歳の時に出生した娘さんから、落大最上級の称号で呼ばれる喜びったらない。
 
夫人に段ボールに入った腿肉パックを見せると、彼女はパックにサインペンで「悦子」と書いてくれた。最高の供養となる。そして風呂敷に箱を包んでベランダに置く。準備は完了。
 
円九君から再度「悦子は大丈夫ですか」とのメール。もう近所まで帰ってるらしい。
僕は「みんなを待ってます。今、風呂場を検分しています」と返信。小父貴はこれでまた落ち込んだらしい。
 
ピンポーン。玄関の呼び鈴。やん愚師が飛込んできて
「おい、貴様、悦子は、悦子はどこに居るんや、大丈夫なんか!」
夫人は沈んだ顔をして黙ってベランダを指差す(芸が臭い)。
 
僕はベランダから風呂敷包みを抱え入れ、結びを解こうとする。
(演出で一度箱を揺らして中に何か居るような振りをした)
やん愚師が息を呑む。円九君が固く目を閉じる。笑鬼師の口内がシューという音と共に乾くのが解る。
 
そして僕は取り出した。ライフで買った鶏腿肉のパックを。
あの夜、万感の想いを込めた最高の鶏鍋となった。

悦子、ありがとう、悦子。

書けない。涙で書けない。

業、輪廻、生死、そして悦子…。

行ってくれ、ええとこへ!