第110回 近鐵の思ひ出

 遲くなつた。榛原からの歸りだ。ちやうど今くらゐの時期ぢやなかつたらうかな。
 三重は名張の英語塾に行つてた中學二年の冬の頃。二十六年ほど前のことだ。夜の十時頃、名張から近鐵の急行に乘つてゐた。榛原までの二十五分間ほどだ。
 車輛には僕。後ひとり、僕の席の前の長椅子に、横に寢そべるをぢさんが一人。
 をかしいだろ、和服姿なんだ。車輛にはたつた二人きりだ。をかしな空間、變な瞬間だつたな。席に寢そべり、上を向いて腕で目を隱してる。(あゝ、涙が出てきた。思ひ出すといつゝもだ!)
 その丸坊主のハゲのをぢさんが、物凄い勢ひで空(くう)に向かつて喋つてた。何や判らん。殺氣を帶びて話してる。氣違ひのやうに!今から考へるとネタ繰りだつたんだなあ (落語なんて知らなかつたが)。
 その二年ほど後、テレビ(枝雀寄席)で、あの時のをぢさんが噺家だと知つた。舞臺と同じ氣迫のネタ繰りだつたのだ。本當にすごかつたんだよ。忘れられんな、あの殺氣と勢ひは。カーンと高いとこいく感じ。
 あゝは、なれぬと、右も左もわからん若い内に悟つたことは、藝術に對する己の限界、分限や凡才さを思ひ知る、素晴らしい經驗であつたと、近鐵に夜遲く乘つたら思ひ出す。
 頂きを見たからこそ、自分の分限を弁えてをるつもり。たま/\見せて下さつたあなたに感謝。天上の星を見上げながら、本當に一ファンとして今もお慕ひしてゐます。
 
【陣中日誌】

朝、お鬻、サヨリの干物、ヒヂキの炊いたん。
晝、パスタ・マヨネーズ味。
晩、オムライス魚型、モヤシ炒め。