第1175回 寺嶋の異変

 わが心のサンクチュアリ、表現舎の心のオアシスである寺嶋酒店立飲み部については、これまで散々書き連ねてきたところである。ポッケに1000円も入っておれば、舞台後のひとり打ち上げには、ちょっと寄りたくなる。
 驚くなかれ、最小で510円、ホロっと酔って1000円程度。それ以上だと深い酩酊へと陥るんだ。ははは、僕のリーズナブルな楽しみである。近年、暫時改装され、店舗面積が増大した。いつも同じお客さまたちが屯している。
 皆と同じカウンターへ斜と並び、隣のおじさんたちの会話に、耳そばだてて聞きただしながら、僕はひとり静かに飲んでいる。
 襟の白、青が入り乱れて飲む酒は、平素、駅から自宅までにワンカップの焼酎をグイ飲みして帰るに比して、数千倍の文化的かつ最低限度の生活である。
 ものすごく底辺の生活をしていた時も、今も、そして今後(ないだろうが)たとえ大富豪になったとしても、もはや僕には、寺嶋でよい、いや失礼、寺嶋が、よい。
 
 その寺嶋に、聞け、異変が起きたのだ。久しぶりに行くと、いつもの内勤者に混じり、なんと、見たことのない「お若い娘はん」が、中で勤務しているのである。なかなか、お美しく、色がお白い。北日本の血統を感じる。
 「うむぅ…」。僕はうなる。難題に直面したからだ。まあ、難題とはいっても、別に家族をほっぽらかして、その娘はんと一緒になる、などというご陽気な難題ではない。
 「一体、これは、誰だ?」という、実に思想家として、がっぷり四つに取り組むべき当たり前の命題なのである。情報収集と、脳内のブレンストーミングのみで解決するべき人間存在の基本原理を問う、すこぶる当たり前の疑問である。
 この問題に与えられたる前提を掲げる。ここは、この店は、親父さんと、お母さん(仮称・お母さん)がいる。ウチの両親ほどの歳だろうか。このふたりの関係は不明だ(夫婦なのだろうか?)。
 ほいで、僕からすると少しく年上の女性(仮称・お姉さん)がいる。ここに加えて「息子さん」がいる。彼は男前だ。
 この仮称「お姉さん」と、そこにいる30代半ばの息子さんらしき男前は、年格好からすると親子ではないかと思われた。
 そこに、くだんの「娘はん」が混じるのだ。さあ、この「娘はん」だ。問題はこの「娘はん」なのだ。
 賢明なる読者の皆さん方からの声が聞こえる。
 「乱坊ちゃん、その娘はんちゅうのん、男前の息子さんの嫁はんやで」
 ははは、あなたに言われるまでもない、僕もそう思った。僕が初日に想定した予想だった。
 しかし、僕はここから、その神髄・本質を把握しようと、初日から3日間、連続でこの店に通ったのだ。表現舎のルーチンワークである。現在時間の軸から離れて生きる僕は、そんなことが実は重要事項であるわけだ。
 僕は思うた。「ああ、これは義理の娘に相違ない、義理娘という言質を何とか取ろうぢゃないか!」
 これまで仕事で相続案件を、クチャクチャこねくりまわして来た僕にとって、年齢の順列された人間関係を見ると、その関係を与えられた前提条件をもとに知りたくなる。かつての職業病である。
 僕はこの若い娘さんにオーダーするついでに言った、「ところで、あなたは、一体、誰ですか?」
 うら若きその彼女は言った。
 「はあ、私は、単なる、バイトです」
 
 僕はがっくりとカウンターにうつ伏せた。考えうる予想がすべて外れた一夜となったのだ。
 でも今後の僕は通う。通うだろう。その日ともに居た、来舞兄(ほほー、やっと出てきましたね、来舞さん)との二人の「兄弟会」に、彼女がお客さまとして、会場に来てくれるその日まで。
 
 今、合衆国民でこれを読む娘よ、心して聞け。また今は解らぬが、大きくなり父のブログを探しあてた娘たちよ、耳穴を深く掘り下げ聞くがよい。
 表現舎乱坊の麗しき連結は続く、否、続いた。
 心せよ。君が明日に出会う人は、すべからく将来の、君のお客さま、支援者、後援者と信じて接せよ。後の世に必ずや再び出会うと信じて、その方との今の出会いと別れに傾注せよ。
 
 父はすべての舞台で今も必ず言うている、「また来年必ず来ますから、どうぞ皆さんお元気で」。これは言霊である。
 会えると思えば必ず会える。そして、なろうと思えば必ずなれる。他の人は君を笑うであろう。だが信じて進め。けだし、これは、真実だからである。
 切っ先を鈍らすな。必ず父はそのかたわらにいる。