第1050回 池田市商業祭 出演

 池田市は、僕の表現活動をご評価下さったありがたいところである。これでもかというほど池田では出してもらっている。おたなkaiwaiによる商店街活性化事業はもちろん、そのおたなkaiwaiから派生してさまざまな人たちと出会い、可愛がって下さっている、まさに第二の故郷と呼んでも差し支えない、わが心のサンクチュアリである。
 この池田の街の商業者らが、お客様の平素のご愛顧に感謝して各種のイベントを行うのが「池田市商業祭」だ。昨年に引き続き出演させて頂けることとなった。名誉なことである。
 
 この日は、これと同時開催で「社会人落語名人決定戦」という社会人落語者にとって重要な祭典が開かれる日と重なっていた。7月末ごろ、僕は社会人落語名人決定戦の出願を控えて悩んでいた。
 9月、10月は、スケジュールを見ると、僕にとって敬老月間も含んでかきいれ時である。昨年の出場の折も感じたが、名人決定戦出場のための労力は尋常なものではない。よって、これに傾注すると、マルチタスクが苦手で不器用な僕のことだ、他の舞台や講演がすべて疎かになることは予想できた。当時の心情をこう書き記している。
 「道中で決心する。本年度の池田での社会人落語選手権大会は辞退することにした。9月に指しネタでご下命を賜り、それに向けての調整を行うにおいて、昨年の気合で予選に向かうことは、兵力の分散。どちらもが疎かと為ろう。自身も予選を通過するかどうか解らぬが、そのような心持ちで大会に臨むのは、全国に綺羅星のようにおわす名人上手に申し訳がない。各位のご健闘を心より祈り、新ネタに邁進する事とする。その旨、笑鬼会長と来舞兄、豊能大姐、池田の吉岡さんにはご連絡申し上げておいた」。2010-07-28付「第996回 堺福音教会での奉納演舞」より引用
 また、落語の技術向上はもちろんのことながらも、既に表現舎の目的は「時空の共有」「主客の一体」という落語とは異なる系統に向かっている(どちらが高い低いとか、次のステップとかいう意味ではないことに注意せよ。強いて同列に並べてで論じるならば、落語を行うための前段階のレベルに置いても良いかも知れぬ。未だそんな段階をうろついているのだ)。落語という形態は用いることもあるが、もはや乱坊はいかにお客様と対峙するのかという位置関係を探っている日々であって、手段は実に手品でも歌でもフラダンスでもいいのかも知れぬ。乱坊はお客様とどんな関係を創造したいのかを自分自身に問いただしている最中である。これらについては昨年の決定戦後の感想にその初論がある(2009-08-19付「第807回 社会人落語初代日本一決定戦(下巻)」をご参照されたい)。現在、すでにこれを書いた当時とは異なるところに興味関心は移っているが、この項で書いたことは現在のすべての基礎である。
 いずれにせよ、万感の想いを乗せて出場を辞退したのであるが、一言でペロッと書くと「生活のため」に辞退したことになる。コンテストに出ている余裕はない。生計維持行為がこれまた池田であったということだ。
 
 朝、9時45分からテルテル広場において声出し開始。落大のやまは嬢との絡みである。やまは嬢はいい。生徒会長をやってきただけのことはあって明朗にして明晰、礼節を知り臆することなく舞台を楽しむ。また顔がいい。なんとなく可愛くも見えるんだが、よく見ると鼻が上向いている。これがなんとも言えないファニーな感じを醸し出している、いい意味で。これは精一杯褒めているということを行間から読み取ってほしい。
 舞台上でマイクをすかして小声で言う。
 「もっとガンガン噛んで来い、かまへん、先輩と思うな」
 良くなった。
 
 テルテル広場の外には、社会人落語名人決定戦に出場の名人上手が大会スタッフの指示にしたがって隊列をなしている。舞台上から見ると、茂八君、圓九君、笑鬼会長、猿の助君などがみえた。
 「表現舎乱坊です。社会人落語選手権にご出場の皆様のご健闘を心よりお祈りします!」
 こう叫んだとき、数名の方が舞台に向かって手を振ってくださった。
 これには後刻談がある。この日サカエマチ商店街で喋っていると、当たり目兄さんが声をかけて下さった。
 「乱坊さん、『社会人落語選手権』はトリイホールの会の名称ですよ」
 完全にごっちゃになっていた。舞台出演後の所感などを話して下さった。
 
 主に当日の業務は情宣活動と、大喜利、サカエマチ一番街の各店紹介、ケンケンパ大会の進行などで、ほとんど喋りづくめに喋り続ける。元来、おしゃべりは嫌いじゃないので、さして苦にはならぬ。
 サカエマチ巡りは各店の特徴などを全店歩きながら紹介していくのだが、これは阪大落研の前部長であるブキッチョ君と行った。
 各店を2周分、彼に紹介するという形態を取る。二時間ぐらい彼と喋り続けるのだから、彼は僕を、僕は彼を、細部に渡り理解し合えるほどの文字数を延々交わす。疲れるが実に面白く、愉快な時間でもある。彼が一生懸命喋っている姿に、僕は尊いものが見えたような気がする。
 阪大を卒業する彼は、秀才として、関大のわれらとは異なる階層や人生を歩むであろう。しかし彼の人生を瞬間であったとしても交差させた表現舎という愚かで意味不明な生き方を見たことは、彼の人生に少しく社会の各層理解の厚みを増さしめるものともなろう。
 
 楽生師など各地の名人上手が親しくお声がけ下さるの栄光に浴したことにも触れておく。落大の先輩たちが
「乱坊、池田で当日仕事をするのは、名人選に喧嘩を売ってるように見えないか」
とご心配頂いた経緯もこれまでにあった。だが、結果発表から駅へお戻りの名人上手たちが親しくお声がけ下されたのは、僕にとって本当にうれしいことであった。特筆しておく。
 
 終了後、引札屋二階で簡単打ち上げ。而して後、服部にて名人選ご出演・ご観戦の面々が集っているから来い、とのやん愚兄さんのご連絡に服部へ。
 どん太さんが遠路はるばるご観戦に来ておられ、再会を共に喜ぶ。駆け付け3杯、疲労と空腹に酒は全身を経巡り泥酔す。えんか師、ケージ兄さんなどとも親しく仁義を切る。
 会長宅にどん太さんと二人泊まる。会長宅へ行こうとして智子姉の自転車にまたがろうとして、そのまま反対側へこける。その自転車を起こそうとしてまた反対側へこける。膝と肘は血まみれとなる。
 会長宅までの道中にある中華屋で三歩師、チャーム師などと合流し、さらにもう一呑み、こけるどんちゃんを抱き起こさんとして二人でこけまくる。
 二人本当によく呑んだ。翌朝、どんちゃんのメガネのレンズが片方なくなっていた。マンガみたいな一夜であった。