第1020回 矢田北地区敬老会

 さて、土曜のトリプルヘッダーのラストを飾る3席目も、約100名で特別講堂風、客電落としであった。お客様の顔が見えぬ。話の途中では折れぬ計らいの御業を賜ったが、舞台に上がる前には完全に心は折れていた。
 今日は3席で3回おなじものをかけようと思っていたが、萎えてもう無理だった。餅食院(餅食いーん)かお忘れ物で鋭気を養おう、そでないと、このままなら今日の3席あがりには、親子酒に三爆死して、戦場に出立ての初年兵のように、舞台の隅っこでブルブル震えて三角座りでお漏らししてしまうに違いない。
 司会の方の紹介が始まった。
 「…それではここで、乱坊ちゃんに、漫談で…」
 「ま、漫談!漫談でいいの!」
 ありがとうございます!マクラを30分皆さんと楽しんだ。
 
 終わって主催者様に御礼。まもなく来舞兄より着電。「どうやった?」
 「お稽古して最高のものをご提供しようと思いましたが爆死しました。人物二人とも酔いすぎてます。調整できません」
 兄は、電話の向こうで居住まいを正された(のがわかった)。
 「そうか。では、君に言っておくことがある。道を求めようとするなら聞きなさい」
 僕は、スーパーサンエーで取り上げた、独りやけ酒用の焼酎ワンカップを陳列棚に戻し店を出た。
 「わしも酒のネタをやるが、酒飲み(の演者)は酔っ払いの描写に力を入れるがあまり、舞台上で酔ってしまう。わしもかつてそうであった。プロの名人上手の表現の精神に学べば、酔っ払いで話を運ばず、うどん屋のかなんなあという感情をしっかり縦軸に話を綴り、突っ込み側できちんと話をはこばなければならぬ。力点のパラダイムを変えろ。また(同日に心斎橋で「親子酒」を演じておられた)千里家千太師の親子酒の舞台を本日見たが、酔っ払いでぐずぐずに酔わず、全編軽く進めていらっしゃる。近親の名演として君が見習うべき点は多い。千太師の舞台を見ながら、元来、重たい演じの君に今、再び言うておくべきではないかと思い架電した」とおっしゃった。
 ご配慮である。兄を通じて顕されたことに感謝する。
 
 返す刀で、打ち上げのただ中にいらっしゃる千太師に架電する。
 師はおっしゃった。「僕も酔ってしまいます。一度、君の親子酒を舞台の袖からみてみましょう」と。同板の栄光を賜れるよう努力をしようと思う。深謝。
 
 翌の深夜1時であったか、僕のブログで爆死したるを書いたを読んだやん愚兄よりグズグズに酔われて着電。
 「乱坊!爆死したか、カカカカカ」
 「はい、頓死しました」
 「乱坊、!俺な!」
 「はい」
 「乱坊、俺の『厩火事』、鉄板やろ」
 「はい、やん愚さんの『厩火事』は鉄板です」
 実際、やん愚さんが「厩火事」で外しているのを見たことがない。ご自身の夫婦観を交え、お客様との間尺を計り、糸のつながりを細かく操作される様は、さすが税理士事務所の職員だけのことはある。あんな調子で平素、脱税(失礼!)、いや、節税指南を繰り広げておられるのであろう。我がイチ押しの社会人落語の体現者たる兄の鉄板であることは僕が保証する。
 「その『厩火事』がなぁ」
 兄の声のトーンが一段堕ちた。湿っぽい音が鼻から鳴った。
 「うぐぅっ、今日、スコーンやったんや」
 「そ、そんなっ!」
 「お客様は微動だにせず、クスリともせなんだんや」
 「そんな!おお、兄者、舞台には、何者かが居てますなあ」
 「そうや、乱坊!確かに何かが居とるぞ!」
 
 舞台に居るのは決して魔物ではない。舞台は神の気に満ちている。我々に何事かを伝えようとする創造者、同伴者の気に満ちている。
  
 我らのクラブの部是は、再三に本誌に記してきたが、「落語を媒介とした人間関係づくり」である。人間関係は部内関係者だけではない。25年経って解る。さまざまな帰属する団体に我らを社会人落語者と解ったうえで起用して下さる共鳴者の皆様、および共に時空を共有して頂くお客様皆様との(瞬時の)人間関係をも含む。
 我らは、尊し敬するプロの名人上手の名演に酔い憧れながら、凡夫(プロの反対語)なりに、マンツーマンで、あるいは袖や客席で見た同僚演者の舞台の所感を述べ合い、時々に気づいたことを胸倉掴みぶつけ合う、表現者らの有志であって、自身と互いの成長を念じ、お客様との神聖な時空を共に共有しようと試みる手段として、社会人として落語に接している。
 みな仕事などほっぽらかしで落語に勤しむ姿は、色んな意味で社会人落語者という尊称卑称がごったになった立場として、なりたい自分の姿を目指して、恥をさらし明日への糧と為し、あるいはお客様との僅かな糸が繋がった喜びをまた明日への糧と為して進む。
 この有り難い各条の架電らをもって、うちひしがれる僕に顕された御業を、大いなる喜びとともにおし頂く。
 見よ、落語を媒介とした人間関係づくりは、これまでも、今も、そしてこれからも続くのである。
 これら経済社会に背を向けた、神聖ともいえるわが先達らの、自身を見詰め、お客様との時空の共有を目論む諸候らの末席を汚しつつ、そこにようやくひっかかる、哀れ乱坊の志しを諒として、共鳴して頂く大衆との麗しき共同を今後も期するところである。