第976回 西成区南津守地区での三本の扇子

あいこしゅぎ【愛己主義】(名)【倫】利己主義。− 金澤庄三郎編『廣辭林新訂版』三省堂発行(昭和12年1月25日新訂第360版)より引用。
 
 西成区南津守地区いきいき教室30名80分。前段講演、後段「忘れ物」。
 会場に着いた。一人のおばあさんが近づいてきた。
 「乱坊さん、ちょっとよろしか」
 「どうぞ、どうぞ」
 「私、明日で75歳になりますねん、誕生日ですねん」
 「わー、おめでとうございます。75には見えまへんな、74に見えまっせ」
 「うまいこと言うて。ほで、ちょっとお願いがありますねんけど」
 「はぁ、何でござります?」
 「乱坊さん、去年来てくれはって、今年も来てくれはるちゅうのん聞いて私、楽しみにしてましてん」
 「はいな、何ぼでも来まっせー、おばあちゃんら生きてる限り何ぼでも来まっせー」
 「ほで、えらい厚かましいお願いですねけど」
 「ささ、金のこと以外やったら何でもさしてもらいますで。足さすりまひょか、肩もみまひょか、どうです一緒にお風呂でも」
 
 彼女はさらの扇子を三本鞄から取り出した。
 
 「(恥じらいながら) 乱坊さんのサイン、この扇子に書いて欲しですねんけど」
 「はあ?」
 「この筆ペンで」
 「い、いや、あのね、この扇子、さらですし、僕が落書きしたら値打ち下がりまっせ」
 「乱坊さん今度来はったら、記念にサインしてもらおと楽しみにしてましたん。お願いします」
 「えー、ぼぼぼ、僕でええんですか」
 「私、まさこ、て言いますねん。正しい子の正子です。お願いしてよろしでっしゃろか」
 「ええかいな。わわわわ、解りました」
 
 社会福祉協議会のこの事業を僕は意味を解らずやってきたと思う。今になって漸くその理解の門口に立った。
 僕は上手くなく、噺は美しくない。うまい人間なら五万といる。同好の末席に引っかかっている程度だ。
 この人たちは上手い噺を聞きたくて来てるんじゃない。ご近所、同世代の親しい皆さんと、彼女らを支えるボランティアの皆さん、所謂、世代と地域で、時間と空間を共有したいと渇望しておられるのではなかろうか。渇望を阻害しているのは「老いによる機動力の低下」なのであって、別に閉じこもりたい人など居るまい。
 「高齢者閉じこもり予防事業」などというネーミングが余りに演者側に愛己主義的で、如何にも高所からの謂いに見えて本来の狙いをぼやかせてしまっている。この事業は「彼女たちの自発的な、世代と地域での時空共有の欲求を結実させるためのお手伝い」に過ぎぬのだ。
 そこに若いもんが膝元までやってきて一生懸命汗を流して喋る。こりゃ誰でもいいのだ。フラダンスでも歌でもよい。敬意とご多幸あらんことを願うて共有のお手伝いができればそれでよい。
 お感じになられた時空共有の確認が「笑い」となってそこに顕れているだけだ。僕は、その確認の媒介者、取り次ぎ人に過ぎぬ。
 取り次ぎ人にサインを求めておられるのは「私達は自分達で共有を確認しましたよ」という達成感の有形化であり、「その媒介者として汗を流したのを私は見ましたよ」という有り難いお褒めの言葉と受け取っておきたい。
 
 既述6月20日付本日誌にいう「徴兵入隊受付の気持ち」で真心を込めて書いた。
 「正子さん江 お元気で 表現舎乱坊」