第887回 文枝師匠との神秘的な一夜

12/15(火)
来舞兄、茂八君、そして僕の三人は昨晩、玉出の寺嶋にて立ち飲んだ。三人で今年を省み、来年に期するの会であった。伊賀の舞台上がり、玉出に走る。便乗打ち上げだ。
昨夜の出来事は、僕ら三人以外、意味を感じぬ人には全く意味がないように聞こえるだろう。しかし僕たち三人には重大な意味がある。記録する。
 
僕たち三人には、二つの共通する経験がある。
一つは、時期は異なるがこれ程ない位に経済的に困窮した時代、肉体的には生存するが、経済的な臨死体験を味わった点である。人生未経験の困窮に荒さみ諦め涙を流し、かつまた脂汗を流し踏ん張り其処から力強く平安な生活に舞い戻る。二人はその時代を抜けた。僕はまだ貧窮の過程な訳であるが。僕は、彼ら二人の復興の証し人である。僕の復興を彼ら二人は見守ってくれている。
この世は夢の浮き世である。上手い下手などない。貧富も貴賎もない。ただ壁に向かい精進する、また与えられた役割にもがくことしかない。僕たちのこの経験は、天上が必要と思し召した一過程である。兄弟二人同様に喜んで通らせて貰う。
もう一つ。尊敬する名人上手との神秘的な出逢い。たとえば僕の、近鉄電車内での枝雀師匠との不思議な貸切り状態(過去ログ参照)。この思い出は、爾来、頭を離れることなく、後の自身表現を象る上でのメルクマールとなっている。
 
さて、僕の師ともいうべき造詣深き両兄弟において五世文枝師は特別な存在である。茂八君の五世に対する敬愛と素人名人会での触れあいなどは彼の表現の基底となっている。
ところで、今回のナビゲータである来舞兄は西成区玉出の産であり、小学生の頃から地元の文枝師に憧れ、学校や塾の行き帰りに回り道をした。文枝師のご自宅前を通い倒し褌一丁の師に何度も遭遇したという。
高校の頃の彼は、洋楽に親しみ、友人の藤代氏と楽団(バンド)の稽古に勤しんだ。その稽古明けに行く喫茶店「ピエロ」は文枝師行きつけの店であったが、一見を嫌うマスターに何故か気に入られ、ある時文枝師ご隣席の栄に浴したことがあった。
兄はガッシガシに緊張して固まった。その姿に藤代氏は、
「お前、何、固まってんねん」
と聞いたという。兄はカンカチキンに固まったまま、
「落語界のミックジャガーやないか」
と言ったと聞く。この一言で藤代氏もガッシガシに固まった、とは、この一行、僕の想像。
立ち飲み寺嶋を早々に切り上げ、僕たちはいつものコース。旧・長谷川多持氏邸、即ち文枝師のご自宅へ。
兄は、茂八君を案内したかったと言った。これまで兄の、彼との乾杯の度に話題には出てきたが、彼を長年ここに引っ張って来たかったとの兄の宿願が叶うた夜となった。
ご自宅には奥様が居るやして明かりがついている。何のことはない大阪市南部によくある連棟建ての質素な二階建。とても偉大なる師が寝起きした世界文化遺産とは思えぬ。知らんかったら地上げ解体してしまうところだ。
表札に「桂・長谷川」とある。間違いない。静かに三人で手を合わせ、感謝と精進を誓う。
「おい、次行くぞ!」と兄の言う。師行きつけのピエロに向かう。寺嶋、師邸、ピエロ。実は百歩も歩いてない。兄は今宵のために予約しておいてくれた。マスターに電話したらしい。
「あのー蒲田です」
「はっ?」
「アホの蒲田です」
「ああ、君か」
カウンターでマスター相手に三人、杯を重ねる。常に師の傍ら(自宅は師の向かい)に居て、赤裸々に師の語るを聞いた、ピエロのマスターの福音を世の落語者のために書き記す。
文枝師は言った、「落語は語るだけでよい。お客様が頭で膨らます」
文枝師は言った、「良き人こそ、良き落語をするものである」
晩年、独演会を前に文枝師は言った、「ワシ寝られへんねん、一杯付き合いしてくれ」
お医者さんに文枝師は言った、「ワシ、ネタを間違えてグルグル周りすることありまんねけど病気ちゃいまっしゃろか」お医者さん「そんなん病気やあらしまへん、小学生でもありますわ」
若い頃、文枝師は言った、「ワシ60になったら、やりたいネタありまんねん。70の時にやりたいネタありまんねん」
遺作の新作落語『熊野詣』に「自分でもまだまだ練らなあかんと思てます」
思い当たること多数あり。カウンターの隅に師のおわす気配やする。
「あ、そうや!」
マスターが奥の酒庫から一本の酒瓶を取り出してきた。
札がかかっている。
  【師匠 12月10日】
「…こ、これは何ですか?」
「師匠のキープしてはった焼酎や。」
 
Wikipediaから引用する。
2005年3月12日、肺癌のため三重県伊賀市の病院にて死去。74歳没。1月10日の大阪・高津宮での「高津の富」が最後の口演となった。
 
今、目の前にあるのは、2004年12月10日に師匠が飲んでいらっしゃった焼酎のボトルである。
「乾杯しょうか」とマスター。
「え、えーっ!」
これは師匠の血である。きっと僕らの肉となる。
三人とマスターは、小さなコップに注ぎ分け、
「乾杯!」
一気に飲み干した。マスターは言った。
「気抜けとるなー」
そんなことはない。美味い。味など解らぬ、関係ない。これを三人で今、飲んでることにこそ意味がある。
弟子でもなく、ただ師を、落語の歴史を敬愛する素人の表現者たちに過ぎぬ。だが昨夜、僕たちは師匠と確かに乾杯した。
この導きの先に何があるのか。わからぬ。ただ今、書きながら感謝に落涙する。
今後もビビりバビりながら舞台に、幾千人ものお客様に出逢うだろう。しかしきっと三人は、今宵の酒を、あの乾杯を終世忘れぬであろう。