第793回 生活延長線

妻の大学で学会の発表があるとかで、近頃、またもや我が家は父子家庭の様相を呈している。
日曜日は完全休業。娘たちを府営住之江プールに連れていく。天寧は蹴伸びのお稽古、まつ梨は避暑のバカンス、父さんは目の保養と心の洗濯だ。
毎夜キャバ嬢3000人、週に延べ15000人の気合いの入った色香比べたちが眼前を延々と通る現場だ。美しい女には今、食傷気味だ。
時には一般人の気合いの入っていない日常の、あたかもコメカミに膏薬を貼った子育てに翻弄される奥様たちの四肢(以下を読めばこれが誉め言葉とわかるだろう)でも拝見して現実社会に舞い降りたい。
大体、キャバ嬢たちには生活の実感、生活臭がない。あれは女性の標本であって見本ではなく、実存を押し隠した作り込まれた人形のような(ある種統一化された)その形態には、日々の個体保存(飯食て生きていくことね)に疲れ果てながらも、遺伝子を次世代に遺さんとする僕たちの種族保存・氏族保存の行為の相手方となって、共に汗み泥になって掻き抱き合うべき、人間としての、ヒト族即ちサピエンスとしての、生活臭というか生命臭、言い換えれば獣(けもの)臭がしないのだ。すれちがえば素晴らしい匂いはするが、無臭に過ぎる。
性は原初、森でそうであったように、洞穴の焚火の横で生活の延長線上として、日常生活と断絶なく存在したのであって、今も変わらず生活の一部でなければならぬ。であれば人口は減らぬ。年柄年中盛っているのは全生命中人類だけで、産業革命以降、大量戦没の時期を除いては我ら種族は殖えに殖えまくっているではないか!
若い頃にそうであったようにクリスマスにラフォーレ琵琶湖を予約して行為自体を特別神聖な何かにしようとしたり、ペドやキャバ嬢などに現を抜かして入れあげたりするのは、フィギュアや二次元にしか心を震わせることのないのと同じで、人類としての終焉への誘いである。(※男色に関してはいずれの世にか別項を設けて詳述する)
僕は色街のプラスチック人形たちよりも、一日働いて髪からほのかに汗の香りする女性がなじり、喚き、怒鳴りしてがっぷり家庭生活ととっ組み合いしている様にグッと来る。
…と書き出したが、こんな僕の性的嗜好に関するプチ情報を得ても、喜ぶ読者などいないことに気付いたので筆を置く。
ちなみに僕は修行僧なので、妻とは純潔を守っている。