第770回 舌禍最大級

土曜。深夜二時だ。

絶対に仕上げないとシャレにならない書き物があったんだが、筆が止まったんで気晴らしにタバコを買うためコンビニへ行った。

一本をマンションの下で吸ってスッキリしたんで、十階に帰ろうとエレベータのボタンを押す。あいにくエレベータは最上階の十四階に止まって居たようで、そこから降りてくる。

十三階、十二階、十一階…。

僕はよくボヤッと携帯でミクシなどを見ていて、扉が開いて中から出てきた人と鉢合わせして驚くことがある。まさかこんな時間に鉢合わせすることもないだろな、と思いながら、横にあるエレベータ内部を映す防犯カメラのモニタを見る。

いた。

アフロヘアの男が一人、首をうなだれてエレベータの一番奥に立っている。

なんだ、こんな時間に珍しい。しかしこのマンションにこんな髪型の人が居たかいな、と思う。

十階、九階、八階、七階…。

降りてくる表示を見ながらふと思う。案外、これが幽霊とかだったらびっくりするだろな、と。

例えば、エレベータが一階について扉が開く。ところが中には誰も乗っていない。僕は目を大きく見開き、口をあんぐり開ける。恐怖により口の中はシュッと音を立てて一瞬で渇き、後ろの壁に力なくもたれてヘニャヘニャと腰を抜かし座り込む。「ヒィー」か細い声を出してオシッコをジョロジョロと漏らしてしまうんだ…。

これまでの人生で実際に幽霊などを見たことはないんだが、想像できるあり得べき反応を全て想定し、一度オシッコ以外を独りでその場で稽古してみた。

稽古では「恐怖により口の中はシュッと音を立てて渇き」の下りは僕の好きな表現なんだが、演じる上でのリアリティーを考慮して「恐怖により口の中に湧き上がる唾液をゴクリと飲み込んで」とその場で変えてみた。
その方がやりやすく緊迫した感じがだせるからだ。うん、いい感じだ。これで行こう。

六階、五階、四階、三階、二階…。そして一階。

アフロヘアの男は先ほどからピクリとも動かずその場にいる。えらい端っこに立ってるなと思った。

こういう時、僕はモニタを見て心の準備ができているので大丈夫だが、アフロマンは内部でモニタがないから突然出てきて鉢合わせしてびっくりさせては悪い。
なるべく扉から離れて、出てきた人には先にこっちから明るく挨拶をして、驚かさないようにしてやろう。口を開けて扉が開くのを待つ。

いつもより随分と開くのに時間がかかったような気がした。

スー。扉が開いた。

ととととととと、ところがだ!そこには、誰も居ないっ!

僕はその場でエレベータの中とモニタを何度も何度も見直した。

エレベータは無人だ。だが、モニタにはアフロヘアの男が映ってる!

出た、本物だ!

苦節四十三年。ついに冥府の境界、トワイライトゾーンの入口に立ってしまったのだ。

僕は目を大きく見開き、口をあんぐり開ける。恐怖により口の中に湧き上がる唾液をゴクリと飲み込んで、後ろの壁に力なくもたれてヘニャヘニャと腰を抜かし座り込む。「ヒィー」か細い声を出してオシッコ…、しまった!さっきしてしまったから膀胱には漏らしてしまう残量がない!

「あーっ、リアリティが、俺のリアリティがーっ」と僕は小声でわめきながら残滴を捻り出そうと腹に力を入れたが、ない。出ない。後ろの壁にへばりついては居たが、ここで来るべきハムナプトラみたいな透明の大きな顔や、それへ差してズーっ、みたいのがない。静かだ。

「人畜…、…無害、なのか?」

アースノーマットのようなゴーストなのかも知れぬ。

「えーと、大丈夫れすかー?」

探り探り、なにかに触れるかもと手をゆっくり振りながら中へ入って行く。

「すみませーん。ご一緒しまーすっ」

可愛く言ってみた。
耳をそばだてる。伊勢音頭のご用命があるかも知れぬと思うたが無言。

勇気を振り絞る。

「…な、何階ですかー?」

またもや無言だ。彼との距離感が掴みにくい。

震える指先で十階のボタンを押す。彼も異論はないようだ。

「雨でもふるんっすかね、暖かくて、気味が悪いほどですね」

言ってみて、しまった!と思った。いかに空白を埋めるためのたわいない会話だったとはいえ「気味が悪い」と思っていると感づかれたかも知れぬ。しまった!やってしまった。

いつも使う言葉には気を付けてきた。本心を悟られないように雑多な言葉で煙幕を張りながら、いつも落としどころを探し求めて来たんじゃないか。仕事や交渉であれほど修練してきたのに!

こんな一番、人生最大の命を懸けた大勝負で失敗してしまうなんて!舌禍だ、そんなつもりはなかったんですと言ってみたところで相手の顔色が見えぬ。顔色で発言の調子を変えてきた僕にとってこの状況は、金で転ばぬ環境フェチに商業地域の隣接建築物の日照権を「日が当たらなくても貴方、文句言えないんすよねー」と生の言葉で説明しちゃったのと同じことだ。例えそうであったとしても、相手は火を吹いて怒るはずだ。

俺はバカだ。何てバカなんだ。もう恐らく僕の五十センチ後ろに立っているであろうアフロヘアは僕の首に手を掛けるだろう。万力のようなものすごい力で僕の首をネジあげてへし折るに決まっている。

その惨劇の様を、この防犯カメラは一部始終撮ってくれるだろうか!夫の、父の、敢えない最期を彼女たちに、嗚呼カメラよ伝えかし!

祈るような気持ちでカメラのレンズ部分を見た。

僕は、カメラのレンズの端っこに一匹の小さな蜘蛛がへばりついているのを発見した。

その蜘蛛を人差し指で吹き飛ばすと、閉まり架けた一階のエレベータの扉を開けてモニタを見た。

アフロヘアの男は跡形もなく消えて果てていた。