第769回 憲法九条会

泉北高速鉄道深井駅。水曜午前9時半。10時の待ち合わせだが少し早く着いた。

駅で僕をお迎えしてくれる車の人を待つ間、バス停に座ってポケポケしてた。

遠くから叫び声が聞こえる。だんだん近づいてきた。なんだ?
僕はバス停を立ってその声の方を探す。

60代半ばと思われる男性。白髪白髭。顔は焼酎焼け。
白下着、ステテコ姿にヘップ履き。
片手にラガーの500mlをしっかと握り、ふらつきながら歩いてくる。
7時くらいに起きて寝間でテレビを見ながら飲んでたが、3本ほどで心地よくなって家を出てきた、という感じか。
いでたちからご近所さんだろう。

僕は一人で喋っている人を見ると我慢がたまらなくなる。何を言ってるのか聞き耳を立てる癖がある。仲間かも知れないからだ。

彼は実に叫んでいた。中国地方風に言うと「おらんで」いた。
わめき散らしていたのだ。そのくせおボケになっておられるようではない。
毒を吐く、という感じだ。それが朗々としたええ声なんだ。
街を行く人々を罵倒し倒してる。

「俺が、俺が酒を飲んでなにがいかんねん、俺の勝手やないか。
 お前等に何か迷惑をかけたか!タバコの一本くれとでも言うたか!
 その酒も自分で買ってきて、自分の冷蔵庫で冷やしたヤツや。
 お酌もなんにもお前等に頼んでないやないか!
 俺が酒を飲もうが、酢を飲もうが、味醂のもうが、
 何をしようが俺の勝手だ、バッカヤロー」

おっしゃるとおりだ。おそらく朝から酒を飲んでることに一抹の罪悪感があるのだろう。その表れと思われる。

今度は、同じ方向に向かって歩くブーツを履いている20代の女性を見て、彼は言う。

「あら、別嬪さん、別嬪さんって。
 長靴履いてどこ行くの?それ、長靴でしょ長靴。
 それ履いて田植えですか。はははははははははははははははは(大爆笑)。
 長靴やなあ、それ。はははは…、はー(ため息)、
 …別嬪さん、別嬪さんて、なあ、…おい、こら。別嬪さんっていうてるやろ!
 ワシが『別嬪さん、どこ行くの?』って聞いてるねんから、
 『ちょっと会社行きまんねん』とか『近所の田んぼで田植えです』とか、
 なんなと言いようあるやろちゅうてんねんがな、なあ、こら別嬪さん。
 聞いてんのか!おいこら!さては別嬪さんやないから返事をせんのか!
 こっちは気ーぃ使こて『別嬪』って言うてるねやないかい。
 別嬪て言われたら気持ちエエやろがな、ワシかて男前やろここは返事せんか!
 男前と別嬪でワシ等二人はお似合いやないか。
 こら別嬪さん待て。スタスタ歩いておーい、こらー。」

逃げられよった。
悪い酒だ。今度はフラフラ、フラフラとバス停の方に来た。
僕は関わり合いになりたくないので目をそらしたら、既に彼は次のターゲットを見つけていたようだ。僕には一瞥もくれずに新たな獲物の方に向かって、千鳥足で近づいていく。

「おい、諸君!」

運動部系(ラグビーかアメフトみたいだった)の6〜7人が座ってバスを待っていた。
静かに談笑していたんだ。

「諸君、若人の諸君!君たちはなっとらーん。大体がなっとらんじゃないか。
 弱い、よわっちーぃぞ。しかし、ワシは強い。ものすごく強いんじゃ。
 おう?何じゃ、これだけの人数がいてワシに格闘を挑もうちゅう者はいないのか!
 ワシの話を聞いているのか、おい、諸君、諸君。こらお前等、き、貴様ー。
 見たところ筋骨隆々なようじゃが、ワシなどは貴様等の相手ではないぞ。
 ワシが若い頃などは、貴様等のようなヤツが束になってかかっても
 ビクともせなんだわ。こてんぱんにやってやる。
 精神がなっとらんのじゃ、今でもワシは貴様等が飛びかかってきても負けぬわ。
 どうじゃ、ワシに飛びかかってくる者はおらぬか、ああ、おらぬじゃろ。
 酔うてはおるが、貴様たちにまだまだ負けるようなワシではない!
 ほれ、かかってきて見ろ、どうじゃ、ふふふふふふ、ワシには隙などないじゃろが。
 お前たちなど腑抜けのようなヤツらにワシはまだまだ負けぬわい。
 がははははは」

その時である。
この6〜7人ぐらいの若者が一斉に立ち上がったのだ。

■立ち位置図■

 ロータリーのあるバス道

└┘└┘└┘  └┘←ガードレール
ワシ◎      ○○○
         ○○○○青年たち
      ●お爺さん


崩れて居るかも知れぬが、立ち位置を示しておく。

青年たちがザッと立ち上がったその瞬間、かの我らが英雄・豪傑のお爺さんは、ビクッと身を震わせた。
そして、持っていたキリンラガーの缶をスルッと手を滑らせて地に落とす、次のような声と共に。

「あ゛あ゛ーっ」

今までの勢いはどこへやら、おっさんは傍で聞き耳を立てる僕が耳を疑うような一言を宣ったのだ。

「ま、待て!はっ、は、話せば、解る。」

お爺さんは、憲法九条の会のような、この情けない一言を、今までの大音声とは比べ物にならぬ細いしわがれ声で力なく発すると、ストンと足元に落ちたラガービールの缶から垂直に上に飛び散ったビールの飛抹をステテコ一面に浴びながら、ビビりおののいて二歩ほど後ずさりした。

ところが、立ち上がった若者たちは、おっさんの方など見ては居なかった。
バスが着たのだ、彼らはバスに乗るために立ち上がっただけだったのである。

ドヤドヤドヤとバスに乗り込む彼らを見送ったお爺さんは、2メートルしか離れていない僕にようやく聞こえるような小声で呟いた。

「ふぅー、恐れをなして、逃げていきやがった」

彼は倒れた缶を拾い上げ、残っていたラガーを飲み干すと、黙って元来た方角へ歩いて帰って行った。しっかりした足取りで!一瞬で素面になったようだ。

彼はボコられて死ぬかと思ったにちがいない。
僕は笑いをこらえるのが必死で死ぬかと思った。

嗚呼、酔っぱらい、いとおしき哉!