第740回 八個三百円

午前から午後三時まで契約書の案文草稿。

昼に、雑炊一膳。茶一合。

娘たちが散歩、散歩とぎゃあぎゃあうるさいので、そんなことしてる場合やないんだけれど、歩いて住吉大社へお参りに。
参詣して南海電車を越えて住吉公園に。ブランコ乗ったり散策したり。

公園の芝生はバーベキューの集団が多数。実に外遊びにいい季節になった。

娘らが焼肉の臭いに刺激されたか、お腹が空いた、おやつおやつと吠えだす。
お菓子を食わすのは嫌いなんで天寧にパン、まつ梨にたこ焼き、そして自分には焼酎のワンカップを買いに行こうと公園を出た。
娘らには詢詢と父が帰るまでお花屋さんごっこを続けるように言い聞かせ、知らないおじさんには着いて行くなと戒めた上でだ。

たこ焼き屋が南海の駅前にあった。四十代と思われる店の奥さんにたこ焼き八個三百円のんを持ち帰りで、と注文した。中加賀屋商店街が八個四百円だから、随分安いなあと思いながら見ていたんだ。

せっせと焼いてくれている途中、たこ焼き屋の奥さんがチラリと僕を見た。

「あっ!」

千枚通しで人を指差すので、先端恐怖症気味の僕は思わず目を反らす。

一体なんだ?まるで知り合いのように。
この店によるのは初めてだ。この奥さんに会ったこともないのだが。

すると奥さんはわざわざカウンターのくぐりを抜けて外に出てくる。頭の三角巾を取って言う。

「こないだは、本当にありがとうございました」

深々と頭を下げて丁重に礼を言うのだ。
へ?初めてなんだがな。何のことだかさっぱり解らないが、僕は反射的に、

「あ、いえいえ」

と応えてしまった。
彼女はここで確信したようだ。

「お髭を剃られてたんで、お見逸れしました」

髭…?髭など伸ばしたことはない。
だが、ここまで来て彼女に失望させたり恥をかかすこともあるまい。

「ハハハ。春ですから…、ねぇ」

僕は、あたかも長年伸ばしていた髭を剃ったかのように、顎を右手でなで回してみた。
彼女の顔は晴れやかに笑みに溢れ、したり顔になった。

「主人といつも言ってたんですよー、先生はお髭を剃られた方がいいって」

待て。ヤツは…、まあ仮にヤツのことを「偽乱坊」と呼ぶことにしよう、偽乱坊とはどんなヤツなんだろうか。

偽乱坊は髭を伸ばしていて先生と呼ばれている!何だ?先生とは?

「こないだは」と時期を特定して居るところをみると継続的な関係を持つ子供の学校の先生とか、通ってる文化教室などの講師や掛り付けの主治医・顧問税理士などではないのだろう。

あくまでもピンポイントでクライアントになる関係、例えば弁護士、司法書士、あるいは救急病院の医師かなんかだろう。

そういう人なら何と言うだろうか。リアルの偽乱坊なら…。僕は、わが頭脳が処理能力の最大を用いて弾き出した快真の一言を発する。

「その後、どうですか?」

彼女はたこ焼きを焼きながら朗らかに話しだす。
僕は必死で彼女の話から糸口を探し出して役作りを幅あるものにしようと耳をそばだてるのであるが、話を総合しても依然として何のことだか結局さっぱり解らずじまいだ。

「ふんふん」

とあたかも訳のわかったような相槌を繰り返していた。
どうも何事かしらんがうまいこと行ったような口ぶり。

僕はつじつまを合わせるように一語を発した。

「また何かあれば電話下さい」

何だかわからんが俄然感謝された。
そうこうする内にたこ焼きが焼けたようだ。

「あらあら、先生のお時間を取っちゃいましたね、今日はもうお代はよろしいですわ」

などと言うので、

「奥さん、それはいけません」
「そうですか、じゃあおまけしておきますよ」

と八個入り三百円のところを、十二個詰めてくれた。
四個がおまけされたのである。

時間があれば偽乱坊に礼を言いたい。
これからたこ焼きを買うのは、足を伸ばしてこの店にしよう、偽先生として。