第814回 あいけん【愛犬】

可愛がって飼っている犬。また、犬を可愛がること。―学研「新レインボー小学国語辞典」改訂第3版
 
9月6日(日)、池田市健康まつりの禁煙ステージにて「蛇含草(枕込み15分指定)」。お後シンポジウムのパネラー。池田市長、禁煙医師会の会長さん、池田市PTAの方らと。僕は喫煙舎の利益代表として。
会場はかの枝雀師匠がこよなく愛したと伝えられるアゼリアの小ホール。あの人が「いいホール」と言ったこのホールは、僕にとり有無を言わさぬいいホールである。憧れのあの人が愛したこの板に乗れたことは、素人としての誉れの極み。お噺しながら噛みしめた。
近頃、蛇含草に飽きた感のある僕ではあるが、あの人をレスペクトしてもう少しやってみよう。才能のない素人が噺に飽きたなんぞの謂いは100年早いわ。

話変わって、先日のことである。数時間かけて丹念に家中を探し物した。まつ梨所有の小学館「学習国語新辞典」だ。
ない。ないないない。何処をどう探してもない。

あれが無ければミクシの日記が書けぬ。表題を与えられて初めて打鍵する指示待ち人間である。辞典が無ければ書けぬ。

無ければ、僕と読者はかつてのように電網の路頭に迷い、大海に浮かぶ木の葉のように大波や激流に揉まれお互いの姿も見えなくなっちゃって、2ちゃんなどの匿名掲示板で発言者の筆致から誰かを想像したり、或いは場末の安酒屋でリアルに胸ぐら掴んで居酒するくらいしか、お互いの生存を確認し会う方法がなくなってしまうではないか。

何としても見つけなければ、と焦っているところに帰ってきた妻とまつ梨へ辞典の行方を厳しく問いただした。

するとどうだろう、幼稚園が始まって、あの辞典を幼稚園に持って行ったんだという。夏休みの宿題で解らない言葉は辞典を牽いて付箋を付ける、ことになっていた。だからもはや家に辞典はないのだという。聞いていないではないか。私は妻にその非情を責めると、もう何度聞いたや解らん、僕によく投げ掛ける定型句を口にする。

「知らんがなっ」

あれ程までにいつも父が、夫が、まるで愛犬を常に慈しむように、あたかも情婦と声を潜めて密会するように、本棚に通っては手に取って一語一語を堪能していた愛読書を何の躊躇もなく奪い去る妻子には、僕の落胆は理解でけぬであろう。

「チッ」。目を天寧の机に転じる。違う辞典があるのは知っている。しかし使いたくはなかった。
何故なら、まつ梨のそれが小学校低学年用で語彙1万9千であるのに比して、天寧のは高学年向きで厚さは二倍、文字はチッコイもので語彙は十倍のオーダーとなってくるであろう。
今のペースで書き進めれば、マントルの対流で日本列島が引き摺られ地殻の下に潜り込んでしまうのが早いか、僕が「ん」まで辿り着くのが早いか誠に微妙な位置付けになってくる。

しかし、この僕の短文練習で天寧との短文作成能力で勝負に勝つという壮大な野望の歩みを一日たりとも留める訳には行かぬ。向こうは日日成長し、こちらは日日衰退するのだ。残された時間は僕にはない。

仕方がない。

引用する辞典が変わったのはこういう訳だ。