第742回 時間大旅行

 朝の6時、難波で携帯の電池がなくなった。ああ哀れ、我が携帯の電池は無惨にも事切れてしまった。今、携帯に逝かれると非常に困る。君独りの体じゃないんだよ。せめて2、3人分、この後連絡しなきゃならぬ電話番号だけでも手帳に書き写して公衆電話から架けんといかんのだ。
 この後「9時半四条畷集合」。集合時間だけ決めて、場所をキチッと決めてない。携帯を所有しだしてからこんな怠惰な待ち合わせの癖が付いた。電池の切れた携帯を持って待ち合わせの相手方に会おうと思ったら、恐らく4年半後に当事者全員が四条畷で白骨死体で発見されるだろう。
 まだちょっとくらい電池残ってるやろか。せめて電気が数滴あったらいい。再び電源を入れてみた。…ダメだ、いつものように電源が入らない。君は僕を見限ったのか、否、そんなことはあるまい。携帯の電源スイッチを爪が白くなるほど力を入れて押し続ける。
 しかしやはり電源は入らぬ。ここで攻め方を変えてみる。まずは両手でそっと優しく包み込み妻に伝えたことのない甘い愛情を注ぎ込んでみる。そして表情をキリッと切り替え大魔人のような憤怒の形相でハンバーグの空気抜きよろしくビシパシ刺激を与えるのだ。ここで返す刀で「うぬーぅ」と軽自動車を持ち上げてしまうくらいの力を入れて、再びスイッチを押し下してみた。私はあきらめない、君の再起に全てを架ける。
 画面が少し明るくなった。起動の合図だ、おお、その調子だ!がんばれ!でも起動には、いつもと異なる、何か妙な時間がかかる。全神経、全血流はスイッチを押し続ける私の右親指に極度に集中し、貧血でクラッと来た。
 彼女に僕の心が通じたのか、起動!いつものように日付が表示された。むむ、なんだこれは!?

 「2092年9月19日 0:00」

 2092年?。先ほどの妙な時間に83年をスリップしたのか。タイムクェイクか。クラッときたのは開いたゲートを超えた瞬間か。おそるおそるショーウインドーに映る自分自身を見てみた。…もっと白髪になっているか禿げてると思ったんだが、そのままだ。姿勢も体格も余り2009年当時と変わっていない。つまり、あの頃の僕がそのままこの2092年に時間移動したと考えるのが合理的に妥当だ。
 なんだ、そういうことか。タイムスリップだ!普通じゃん!こう状況が把握できたので、周囲の喧噪が聞こえてきた。辺りを見回してみる。周囲を歩く人たちのファッションや街並み等もあの頃と変化がない。荒涼たる焼け野原とか氷原でなくて安心した。まあ80年ほどでさしたる変化はなかったということか。きっと大きな戦争とかがなかったんだろう。
 でも、知ってる人たち…。あの頃の友人、家族、みなどうなったであろう。携帯のアドレス帳を見てみる。80有余年の歳月は残酷である。500件ほぼ満杯に入っていたあの住所録に誰も居ない、独りの登録もない。あたかもリセットして全員消えたような状態になってる。
 そらそうだ。これだけ時代が流れれば仕方ない。天寧でも91歳、まつ梨で88歳。もう彼女たち自身が居ないかも知れぬ。孫も初老だ。曾孫らの時代か。皆、死に絶えたのだろう。僕は天を仰いでみなの冥福を祈る。
 おまけにメールもネットもつながらん。全部使えない。陸の孤島だ。
 明日朝一番、僕は梅田のウイルコムショップに駆け込む心づもりをしている(この時代にあればだが)。

 「お願いだ! 2009年に帰らしてくれ!」と、半泣きで。